徐福と孝霊天皇との密約!

ヤマト王政誕生秘話【宇佐家口伝 Part 3】

紀元前219年、徐福は日本に来朝するとすぐに、孝霊天皇に謁見して密約を交わします。

このときの密約が、のちの「ヤマト王政」樹立へとつながって行くのです。

それはあたかも、軍事クーデターによるウガヤフキアエズ王朝打倒同盟の成立であり、外患誘致による地方豪族天皇誕生の瞬間でもありました。

 

応神天皇の出自を追いかけて、宇佐家に伝わる口伝を紹介してきたシリーズ3部作。

今回はその【Part 3 完結編】なのですが、応神天皇の謎を解くためには、どうしても徐福の話を先にしておく必要があります。

なぜなら、応神天皇は徐福とその子孫たち(以降「秦氏ネットワーク」と呼ぶ)が招へいした傀儡政権だからです。

 


前回までのおさらい

【Part 1】では、神武天皇が東征の途中で病死したので、兄の景行天皇がその遺志を継いで九州征伐を行ったというお話をしました。⇒過去記事はこちら

 

【Part 2】では、神功皇后と武内宿禰との間の子供・誉田天皇も4歳にして亡くなったので、後継者が途絶えたという話をしました。⇒過去記事はこちら

 

それでは、「一体誰が応神天皇として即位したのか?」「八幡神の正体は何なのか?」という疑問が解決されないまま残ります。

まだ読んでいない方は、まず上記から順に読まれることをオススメします。

 


徐福と孝霊天皇との密約

これ以降の記述は、私が独自に取材した情報ソースをもとに、私自身の推論を加味した仮説です。

出典の明確なものにはその名前を記しますが、無いものは私の空想だと思って、読み飛ばしてください。

従って、反論やご批判は不要です。なぜならほとんどがフィクションだからです。

 

それは、応神天皇が即位するはるか昔、約600年ほど前の弥生時代のことでした。

 

徐福は、秦の始皇帝が周辺諸国から略奪して蓄財した莫大な「黄金ファンド」を持ち逃げして、それを北朝鮮の羅津(らじん)港に隠します。

ここが「国体ワンワールド」の秘密基地であったと落合莞爾先生は書いています。

 

ここの資金源をベースとして、彼らウバイド系ユダヤ人たちの長年の夢であった「約束の地」つまり日本を目指します。

⇒なお、「皇統記(富士宮下文書)」では、徐福は孔子の一番弟子・子路の子孫であると伝えるが、何国人であるかにこだわる必要はない。なぜなら彼らは既に特定の国籍を放棄した「国際ネットワーク集団」だからである。

 

徐福は、紀元前219年に羅津港を出港し、真っすぐに富士山のふもとの河口湖畔に向かいます。

なぜならそこには、当時はまだ一地方豪族であった孝霊天皇の本拠地があったからです。

⇒【出典】「皇統記(富士宮下文書)」・・・・「途中、目標を見失った」という記述があることから、最終目標の河口湖に直行したと解される。

⇒【原文】国立国会図書館デジタルコレクション   156コマ(P259)参照

 

ここで、孝霊天皇と徐福は、おおむね下記のような密約を交わします。(フィクション)

 

◆徐福の一族(秦氏ネットワーク)の日本国への移住を認めて欲しい。

◆そのかわりに、孝霊天皇が正式に天皇として即位することを支援する。

◆もし、ウガヤアキアエズ王朝と交戦するような事態になれば、そのために必要な軍事力は羅津基地から「八幡騎馬隊」を呼び寄せる。

⇒八幡騎馬隊とは、羅津の黄金ファンドを守るために結成された軍事組織で、のちにここから景行天皇や神武天皇が招へいされた。(落合秘史)

◆密約の証として、秦一族のなかでもNo.1の美女を、孝霊天皇の側室として差し出す。

⇒その子孫たちが「ヤマト王政」の中心勢力へと発展してゆく。

 

孝霊天皇の出自に関しては、何の資料も残っていないため、依然として「謎の人物」としておきます。

ただし、ここから約200年後に、大和の地を治めていたのはナガスネヒコであり、その背後には新羅人王族(鎌倉時代の呼び方)が支援していたという記述が『ウエツフミ』にあることから、孝霊天皇とはナガスネヒコの祖先であるという解釈もできます。

⇒【出典】はこちら。・・・・そこには王族の実名まで書かれている。

 

いずれにせよ、当時は河口湖畔にその本拠地があり、ここがのちに「富士宮王朝」と呼ばれることになります。

⇒その後富士山の噴火によりこの宮は消滅。現在は神奈川県の「寒川神社」に移ったと推測される。

 


崇神天皇と四道将軍

この「密約同盟」から登場した英雄が、第10代・崇神天皇です。

 

「皇統記(富士宮下文書)」では、「即位3年6月15日、宮を大和国磯城に遷させ給ふ」とあり、ここで初めて、富士山の裾野に隠れていた謎の人物が、表舞台に登場して「ヤマト王政」の誕生を内外に宣言することとなります。

【原文】国立国会図書館デジタルコレクション 159コマ(P265)参照

 

崇神天皇は、即位すると「徐福を“大物主”という神に祀り上げて」、天照大御神と交代させます。

その後、半島から自分たちの仲間を呼び寄せて、日本の各地に定住させます。

それが『四道将軍』

 

そのメンバーのプロフィールからも分かるように、この頃にはすでに孝霊天皇の直系の子孫たちはパージされており、秦氏ネットワークのなかから天皇を出すというシステムが確立されていたものと思われます。

つまり、「孝霊天皇は、秦氏ネットワークが日本に定着して君臨するために利用された」とするのが私の解釈です。

 

<四道将軍のメンバーと出自>

(1) 気比基地【北陸の敦賀】大彦命

「気比神社」が本拠地である。

大彦命は、崇神天皇の義理の父親で四道将軍として活躍し、のちに越の国を統治。阿倍氏らの祖。

大加羅国王子のツヌガアラシトが崇神天皇の時代に来朝。

つまり大彦命とツヌガアラシトは同一人物か?

縄文日本人のアカル姫を妻とするが、のちに逃走して比売許曽神社に祀られる。

おそらくアカル姫は大分県姫島~難波へと逃げ廻ったウガヤフキアエズ王朝の皇女である。

 

(2) 東海基地【静岡県の焼津】武渟川別

上記の大彦命の子であり、東海地方(おそらく静岡県の焼津)を本拠地とする。

富士宮下文書には焼津が重要拠点であるという記述がある。

つまり、ツヌガアラシトの子か?

秦氏ネットワークの一人であるヤマトタケルが、ここを焼き討ちにしたことは有名だが、このとき戦っていた相手が地元豪族か?

 

(3) 岡山基地【岡山県の高島】吉備津彦

本名は、彦五十狭芹彦命ヒコイサセリヒコ

のちに「吉備津彦神社」に祀られたので、通称キビツヒコと呼ばれる。

もともと児島湾内の高島が拠点であり、桃太郎として地元豪族の温羅氏を鬼ノ城に滅ぼして、岡山平野を手に入れた。(「正悪逆転伝説」の典型例で秦氏が流布した可能性大)

応神天皇の時代には、高梁川西岸(現在の真備町)に「弓月の君」が渡来して定住する。

つまり、キビツヒコと弓月の君は同一人物か?

 

(4) 出石基地【兵庫県の出石町】丹波道主命

垂仁天皇の時代に新羅王・アメノヒボコが渡来。

兵庫県宍粟市を経由して出石町に定住。

「出石神社」が本拠地。

つまり、丹波道主命とアメノヒボコは同一人物か?

なおアメノヒボコは神功皇后ことオキナガタラシ姫の祖先である。

また、ツヌガアラシトと同じくアカル姫を妻としたという伝説があることから、アメノヒボコとツヌガアラシトは兄弟と考えられる。

⇒半島では兄が亡くなると弟がその妻をもらうという慣習がある。

 

なお、この4つの基地以外にも、下記の場所に「秦氏ネットワーク」が展開していたことも確認できます。

 

(5) その他の国内ネットワーク

『筑前国風土記』逸文では、「福岡県の糸島市で五十迹手(いとで)が仲哀天皇を出迎えた」とあるが、アメノヒボコの一族が出石から糸島に展開して、ここで仲哀天皇(ウガヤフキアエズ王朝)と衝突したと解される。

このとき、和睦の証として、オキナガタラシ姫が仲哀天皇の側室に差し出されたか?

これが「糸島天孫降臨説」の発生源である。

 

さらに、『豊前国風土記』逸文にも、「新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神という」とある。

これが現在の香春(かわら)であり、のちに秦氏ネットワークは大分県の宇佐地方にまで南下して、宇佐平野と宇佐神宮を支配下に収めた。

 

以上、これら4つの国内基地と秦氏ネットワークを統括していたのが「富士宮王朝」であり、「皇統記(富士宮下文書)」には、「武内宿禰も徐福に心酔して、しばしばここを訪れてその教えを乞うた」とあります。(時代が合わないが、そもそも武内宿禰は年代不詳)

 

【結び】応神天皇とは? 八幡神とは?

さてさて、以上のとおり「四道将軍」のメンバーを詳細に分析すると、「ツヌガアラシト」「アメノヒボコ」が最も重要な人物であることが分かります。

しかも、私の推測通りに、もし2人が兄弟であったとするならば、下記のような最も危険な推測も成り立ちます。

 

◆大加羅国王子のツヌガアラシトが、日本に来朝して「神武天皇」と名乗る。

◆新羅国王のアメノヒボコが、日本に来朝して「景行天皇」と名乗る。

◆この2人の兄弟を、日本に呼び寄せたのは「崇神天皇」である。

 

その延長線上に「応神天皇」があるとしたら、「宇佐家伝承」も加味しながら、私の出した最終結論は・・・・・

 

◆大加羅国王子のツヌガアラシトの孫のウサノオシトが、最終的に「応神天皇」として即位した。

⇒つまり、宇佐家伝承が伝えるとおり、ウサノオシトは神武天皇の孫である。

 

◆4歳にして亡くなった誉田天皇を「気比神社」に伊奢沙別命(イザサワケ)として祀った。

⇒応神天皇の即位に際しては神功皇后と武内宿禰は応神天皇(ウサノオシト)を連れて気比で「即位祝い」を行っているが、実は天皇交代の儀式であり、あるいは亡くなった誉田天皇の鎮魂式である。これがのちに“その名前を交換した”とする「易名説話」として記紀に描かれる。

 

この私の推測は間違っているかもしれませんが、「応神天皇」は秦氏ネットワークを構成していた王族の中から選ばれたことは、ほぼ間違いないと断定できます。

なぜなら、応神天皇は即位するとすぐに、半島から同族をあまた呼び寄せているからです。

このことから日本列島全土で秦氏の持ち込んだテクノロジーが開花して「古墳時代」がスタートします。

 

これこそが応神天皇が行った唯一にして最大の業績であり、だからこそ「秦氏ネットワーク」によって「八幡神」として祀り上げられたのではないでしょうか?

つまり、約束の地を日本で実現したヤハウェ神であると・・・・。

 

最後に、最も重要なことは「彼らの皇后は縄文日本人の皇女でなければならない」という暗黙のルールがあったことです。

このルールは現在まで継承されて「横田めぐみさん問題」へと発展します。

 

ということは、日本国を背後からしっかりと支えているのは女性たちであり、「宇佐神宮」の本殿中央に祀られている「比女大神こそが八幡神である」という解釈も成り立ちます。

 

すなわち「八幡神」とは、拝む人によってその表情を変える「同床異夢神」なのかもしれません。

 


<宇佐家口伝が伝える衝撃の真実シリーズ>

【Part 1】『神武天皇は東征の途中で病死した!』

【Part 2】『応神天皇と誉田天皇は別人である!』

【Part 3】『徐福と孝霊天皇との密約!』(完結編)

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コメント: 1
  • #1

    みっちゃん (金曜日, 17 3月 2023)

    キビツヒコをもっと深掘りして頂けると幸いです。

    吉備津神社、キビツヒコ神社の2つが存在し、鳴釜の神事が行われている謎etc. 
    温羅の首塚の近所に住んでおりました。