2021年12月22日0:58
太陽の死と再生を祝うお祭り!
私の住んでいる村にも「お日待ち神事」の回覧板が回ってきました。
現在では、11月の末頃に行われることが多いこの行事ですが、それは年末になるといろんな行事が立て込んでみんな忙しくなるからであり、もともとは「冬至の日」に行われていたのです。
私の子供の頃(昭和30年代)には、丘の上の見晴らしの良い場所にかんたんなワラ小屋が建てられ、ここに村人全員が集まって、焚火をしながら夜を明かしました。
もちろん、冬至の「日の出」を拝むためです。
ご存知のように“冬至”とは、太陽の高度と日照時間が下死点に達して、エネルギー放出が最も弱まる時期です。
逆にいえば、この日を境に、太陽の活動がだんだんとパワーを取り戻す転換点であり、いわば“太陽神の復活祭”なのです。
だから縄文人にとっては、まさにこの日がお正月。
この行事を祝うために、縄文人たちがほうぼうから集まってくる様子が、目に見えるようです。
そもそも定住しなかった縄文人
縄文人は、狩猟と採取を中心に生活していました。
ということは、“家”を構えて一カ所に定住する必要は全く無かった訳であり、従って“村”という概念も存在しませんでした。
土地に縛られない自由なノマド(遊牧民)たちは、その季節ごとの最も美味しい食材を求めて、かなり広い範囲を転々と移動していました。
例えば、春には野原で若草を摘み、夏には涼しい海岸でアサリを食べ、秋には森でドングリを拾う・・・・といった具合でしょうか?
このような生活を繰り返していると、ひとつだけ不便なことがあります。
それは、家族や親戚たちが離ればなれになってしまうことです。
だから彼らは、“次の再会の日時と場所”をお互いに約束し合っていたのです。
その場所こそが、「磐座」であり、「ストーンヘンジ」であり、「環状列石」なのです。
どのスポットにも夏至と冬至の太陽の位置を正確に計測できる仕組みが組み込まれています。
そして、再会の日付こそが、冬至だったのです。
時計もカレンダーも持っていなかった彼ら縄文人にとって、唯一の共通認識が、太陽の位置だったので、最も分かりやすい冬至の時期が選ばれました。
おそらく、どこに行っても食料が少なくなる初冬の時期には、携帯できる保存食を携えて、一族郎党の発祥の地へと帰っていったのでしょう!
つまり「寒い時期になったらあそこに集まって、お互いの無事を盛大に祝おうね!」という習慣が、「お日待ち行事」として現在に伝わっているのではないでしょうか?
さらに、「あそこに行けば懐かしい人たちに会える」という共通の念いが、「約束の地」や「シオニズム」となって、現在に伝わっているとも考えられます。
そして、そんななかでも最大の行事が「婚活パーティー」だったのです。
大自然の中に散りぢりになって食料を探す縄文人たち。
若い男女にとっては、パートナーと出会うチャンスは、この時期に限られていたのでしょう?
思いっきりオシャレして、ここぞとばかりに血眼になって相手を探す、若い男女の群れ。
このことを証拠づけるかのように、ストーンヘンジや環状列石の周辺からは、生活の痕跡は確認されていません。
つまり、集団見合いのための巨大なフェスティバル会場だったという説が有力です。
月齢カレンダーの弥生人
ところがここに、やっかいな事態が発生します。
それは、どこからか「弥生人」と称する人たちがやってきて、月の運行をもとにした「弥生カレンダー」を使い始めたからです。
⇒弥生カレンダーとは?
『ウエツフミ』によると、ニニギの命が降臨したその日をもって「お正月」と定めたとあります。
おそらく紀元前8世紀頃のこと。
その日付は正確に分かっていませんが、冬至の日とは異なる日付を“一年の始め”と解釈したのです。
⇒この説を前提にすると、ニニギの命はたまたま新月の日に降臨したことになる?
いずれにせよ、縄文人にとってはやっかいなシスムテが導入されたことになります。
弥生人は、農業を生業とする定住者たちですから、月の満ち欠けを見ながら、農作業のタイミングを決めていました。
例えば、「お正月から●回目の満月になったら、●●の種を蒔こう」といった具合です。
もちろん弥生人たちも、太陽の運行と月の運行が正確に一致しないことを知っていました。
月は約29.5日で一周しますが、太陽は365日+αで一周しますよねえ。
だから「月齢カレンダー」と「太陽カレンダー」との調整を図るため、なんと弥生人たちは12月30日が終わったあと、次の新月(=正月)がやってくるまでの4~5日間を、調整期間としていたのです。
つまり、「おおみそか」と「お正月」との間には、4~5日間の「待ち日」がありました。
縄文人と弥生人との軋轢
いずれにせよここに、太陽信仰の縄文人と月神信仰の弥生人との間に、すくなからずも軋轢が生じたことは想像に難くありません。
おそらく『古事記』『日本書紀』などが伝える、“天照大御神と月読命との姉弟間の確執”とは、このことを意味しているのでしょう。
もっと正確には、太陽の周回周期と月の周回周期がだんだんと離れてゆく様子が、当時の人たちを非常に不安にさせたのでは無いでしょうか?
「もしかしてアマテラスとツキヨミは仲が悪いんじゃないの?」と・・・・
さらに、奈良時代になると、インドからやってきた薬師如来=山王神信仰が大流行します。
彼らからすれば「お日待ち」とは、山王神の縁日を祝う「庚申日」であると解釈されるようになります。
⇒各地に残る「庚申塚」は山王信仰の名残であり、猿田彦信仰からきた「道祖神」とは別物。
⇒ちなみに祇園祭(7月)も、もともとは山王神の誕生日を祝う祭りと、夏の流行病を封じ込める薬師如来信仰が合体した仏教行事であり、従って天皇家からにらまれて弾圧され、御祀神も山王神からスサノオとへ変えられた。
世界のお正月は縄文人が起源か?
現在でも、お正月と冬至との関係は、各国・各民族・各宗派によってバラバラです。
もっとも遅い時期にお正月を迎える中国では、ひと月のなかに調整日を入れてしまったため、つまり一月が30日以上になる月を設けたため、現在の旧正月の日が一年のスタートと考えられているのです。
要するに、月の周期と太陽の周期とのズレを長いこと放置しているとこういうことになります。
一方、キリスト教国では、12月25日がキリストの誕生日とされ「クリスマス」と呼ばれるようになりましたが、実は本当の誕生日には諸説あり、あとからローマ人たちが無理やりこじつけた可能性が指摘されています。
⇒参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9
おそらく「クリスマス」も、縄文人と同じく「太陽神の復活祭である冬至」がベースとなって、ここにキリスト神話が習合していったのでしょう。
ということは、縄文人たちはおそらく国境を越えて、世界中に移動していたことになりますが、最近多くの研究者たちが、そのことを証明し始めています。
例えば、
◆北アメリカ大陸の洞窟から大量の「わらじ」が発見されている。
◆イギリスのストーンヘンジの周辺から見つかった遺骨は、アジア系の人種である。
◆大分県に伝わるお神楽では、猿田彦こそが縄文人(フナトの神)であり、「船で世界中を旅して、世界の4ヶ所に段の柱を建ててきた」と言っている。
もし、縄文人たちが世界中に進出して「冬至こそ正しいお正月である」という概念を拡散してきたのだとしたら、もう一度世界中の政府はカレンダーの見直しと統一を行うべきです。
そうすれば、格差や対立や戦争は無くなるような気がするのですが???
冬至の日に何を行うか?
最後にもう一度繰り返しますが、冬至の日こそが本当のお正月だったとしたとしたら、
「この日をどう捉えて、何を行うか?」
が、現代の日本人にとっても非常に重要となってきます。
「太陽神が復活する日だから、人間たちも気分を一新して、新しい自分と向き合ったら?」
と考えるのは、私だけでしょうか?
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AkikoSasaki (木曜日, 09 12月 2021 13:29)
いつも素晴らしーい。解析有難う御座います。イギリスのストーンヘンジも日本の仁徳・応神天皇陵も1900年に造られた物だという動画を見て、歴史は、この様に創造されていくのかと少し複雑な気分です。イギリスに足を運び、仁徳・応神天皇陵近くの工房に通い、日本の神話や世界の神話を紐解きながら、自然と人類の共生の中で生まれた祭事や習慣の物語が文化文明なのだなーとつくづく思います。これからも色々お教え下さいませね。有難う御座います。
masakazu tanaka (木曜日, 09 12月 2021 23:43)
勉強になつた