古代の日本は王族連合国家だった!

神武天皇も地方豪族で、本物の天皇は別に居た?


古事記・日本書紀では「万世一系」の天皇が日本国を統治したとされています。

 

しかし、古代史を深く研究してゆくうちに、“実際に統治行為を行っていたのは地方豪族たちであり、そのなかから代表者が選ばれて、政治、軍事や外交などを担っていたのではないか?”という仮説が浮上してきました。

 

つまり、本物の天皇は別に居たということになります。

 

この地方豪族たちを、中国の書物では「王」と呼び、その代表者を「大王」と呼んでいますが、卑弥呼もその地方豪族の一人であり、天皇家とは全く別の氏族であった可能性が高いのです。

⇒私の過去記事『奴国の女王ヒミコが倭国の大王になった!』参照

 

この「大王」「天皇」が混同されることにより、古代史の深い闇ともいえる混迷の議論が始まったと言っても過言ではありません。

 

逆にいえば、奈良時代になってから、藤原不比等や太安万侶らの功績により、地方の名門たちの祖先が天皇家の一員として公認されたことにより、やっと日本がひとつにまとまったと考えることもできます。

 


そもそも王族連合国家とは?

この地方豪族による「王族連合国家」の特徴は、ずばり「政教分離の統治機構」なのですが、皮肉なことにそれは現在の政治システムそのものだということです。

 

ちなみに、現在でもこの「王族連合」というシステムを採用している国家があります。

それがアラブ首長国連邦(UAE)。

この国は、7人の王様が共同でひとつの国家を運営しています。

 

この王様たちを結びつけているのが『アラーの神』とモハメッドの書いた『コーラン』(アラーの威徳を称える書)であり、このアラーの神こそ、日本では天皇家にあたるのではないでしょうか?

 

ところが奈良時代になるまで、この『コーラン』にあたる書物、つまり古代日本の歴史と始祖たちの偉業を記した公式文書が、わが国には存在していなかったのです。

 

このことを深く憂慮したのが、聖徳太子でした。

 

当時、わが国のはじまりを伝える『神話』は、各地方豪族がそれぞれ隠匿して門外不出としており、その伝承内容もバラバラで統一されていませんでした。

そもそも門外不出のため、誰もその内容を読むことが出来ず、それぞれの氏族が勝手な解釈をして「一子相伝」で語り継ぐという状態でした。

 

「これでは統一国家とは呼べないではないか!」

 

そう考えた聖徳太子は、推古天皇に進言して『先代旧事本紀(さきのよのふることのふみ)』という書物の編纂に着手し、日本神話の統一を目指します。

⇒添付画像は、『先代旧事本紀 大成教』にある聖徳太子自身の言葉。

 

このことは前にも一度書いていますので、興味のある方は、下記からおさらいしておいてください。

⇒過去記事『聖徳太子が始めた古代史編纂プロジェクト』

ちなみに、『ホツマツタエ』を景行天皇に奉納したオオタタネコも、その序文(オオカシマの推薦文)で、全く同じ指摘をしています。

 

いわく「総て七家の記し文 異なりがちは これに知れ」

つまり「7つの家の家伝の記述内容が全て異なっていることを再認識せよ!」というのです。

 

話しは反れますが、このオオタタネコ一族は、聖徳太子=蘇我馬子からは睨まれており、両者はまさに犬猿の仲、その子孫たちは遠く信州や東北に流罪となります。

⇒『九鬼文書』より

 

つまり、聖徳太子=蘇我馬子らが守り伝えていた『ウチツフミ』(旧辞・帝紀のことと考えられる)と、オオタタネコが伝えた神話(大元神や大物主を皇祖とする)とは、全く異なっていたということです。

 

もっと辛辣な言葉で表現すれば、神話を勝手に解釈して、当時の歴史学会を混乱させていた張本人はオオタタネコ一族や、同じく滅ぼされた物部氏だといっても過言ではありません。

 


神武天皇も地方豪族だった! 天皇は別に居た?

まず先に、神武天皇のお話しからする必要があります。

 

神武天皇というお方、『ウエツフミ』では幼少名をヒダカサヌといい、即位してからは、「第73代・ウガヤフキアエズの命」と称されました。

 

この人物が天皇だったことを示す証拠はどこにもありません。

 

そもそも三種の神器が現在の天皇家とは全く異なっていますし、強いて解釈すれば「ウガヤフキアエズ家の73代目の後継者」という意味にしか取れません。

そしてその活動範囲は大分・宮崎が中心だったのです。

 

⇒ちなみに日向族の三種の神器は、ヤタの鏡・アメノムラクモの剣、潮満珠・潮干珠。

 

これにあとから「神武天皇」という諡(おくりな)を付けたのは、淡海三船(おうみのみふね)という人物であり、藤原不比等の別名であるという説も有力視されています。

つまり、ヒダカサヌを天皇家の直系であると(あるいは意図的に?)認定したのは、この人です。

 

この神武天皇なる人物が、九州の日向族の出身であり、奈良の地に遷都したことは、古事記・日本書紀・ウエツフミの全てが認める、既成の事実です。

 

でも、ちょっと見方を変えると、日向族の王様が、天皇家から公認されて、全国の統治を任される「大王」に就任して、奈良で執務を行った、と解釈することもできます。

 

この仮説を裏付ける証拠は、少なくとも4つあります。

 

◆証拠 その1

前任者が居たこと。

そう、神武天皇の前にはナガスネヒコという人物が奈良を統治してましたよねえ。

このお方については、『ウエツフミ』ではニセ者扱いされてますが、日向族の敵、つまりライバル豪族であったとしたら致し方のないことでしょうか?

 

◆証拠 その2

しかも、このナガスネヒコは神璽を持っていたこと。

『ウエツフミ』でも、「もしナガスネヒコの提示した神璽が本物なら、戦闘は避けられていた」と書かれています。

この神璽とは、ニギハヤヒが授けたハハヤとハハユミであり、これがニセモノだったためナガスネヒコは成敗されてしまいます。

 

◆証拠 その3

この戦闘の最中に、突然ニギハヤヒが降臨して仲裁に入ったこと。

このニギハヤヒこそ本物の天皇だった可能性があります。

神様がいきなり実戦に参加するなんて現実的ではないですよねえ。

ちなみに『ウエツフミ』においても、ヒダカサヌが即位したあと、ニギハヤヒが天の磐船に乗って降臨し、ヒダカサヌに祝辞を述べてから二人で酒盛りをしたという記述があります。

つまりニギハヤヒこそ、ヒダカサヌの上位人物=リアル天皇だったったのでは?

 

◆証拠 その4

これは決定的な証拠なのですが、これまでさして重要ではないと考えて、見落として居ました。

それは、宇佐神宮に伝わる『御託宣集』に書かれています。

そこには八幡神からの直接のご神託として、下記の記述があります。

「ある日、祖母の神(日向族の神武天皇のこと)と、阿蘇の神(熊襲族または隼人族のこと)と、宇佐の神(八幡神を崇拝するヒボコ族のこと)の三者が、こんな話をした。

『祖母の神は華京(奈良の都)に昇ってトップとなったが、もう疲れた。今後は臼杵の娘(イスケヨリ媛)と仲良く静かに暮らしたい。ついては次は宇佐の神(神功天皇あるいは応神天皇のことか)が華京に昇ってトップとなり、阿蘇の神がそれを助けよ!』」

かなり意訳しましたが、間違いなくそう書かれています。

 

以上の証拠から分かるのは、

(1)当時の首都は奈良であり、ここに本物の天皇が居た。

(2)政治のトップは地方豪族から選ばれた人物が持ち回りで就任し「大王」と呼ばれた。

(3)この「大王」を、後代の人物がみんな天皇とみなしたので、大混乱が生じた。

 

さてさて、私の憶測が正しいとすると、日本の古代史に大混乱を生じさせた張本人は、『古事記』と『日本書紀』であるということになります。

 

でも、逆に言えば、藤原不比等や太安万侶らが苦心して、天皇家をひとつにまとめ上げることが出来たのは大手柄であり、これにより日本国がやっと統一国家としての道を歩み始めることが可能になった・・・・という見方も出来ます。

この大事業は聖徳太子にさえ出来なかった訳ですから。

 

彼らの本音を推測してみると、そこにはこんなやり取りがあったのかもしれません。

「奈良時代の現在でも日向族の発言力は強いので、彼らから出た英雄・ヒダカサヌは天皇だったことにしておこう。そうすれば日向族を懐柔できる。また東北の日高見国から出た安寧天皇~開花天皇も一応天皇として名を連ねておきたい。そうすれば鹿島・香取の勢力も取り込めるし・・・・。残るはニギハヤヒを担ぐ物部氏だが、これは厄介だなあ・・・・?!」

 


景行天皇は職業軍人であり、国を統治した事実は無い。

長くなりますが、もう一人、私の仮説を裏付ける重要人物が居ます。

 

それが第12代・景行天皇。

 

私がこのお方に興味を持ったのは、私の生まれ故郷である大分県竹田市、景行天皇はここまで攻めてきて、当時菅生(すごう)地区に住んでいた約3万人の住民を大量虐殺しているからです。

⇒ちなみに、現在話題になっている「吉野ヶ里遺跡」の人口が約4700人とされているので、竹田市菅生地区がいかに巨大都市であったかに注目!

 

つまり「先祖の恨み」ということでしょうか? この地方には現在でも景行天皇の犯した残虐な行為が口頭で伝えられ、そのことを立証する遺跡や碑文が多く残されているのです。

 

ある時期、このお方の足跡を徹底的に調べたことがあるのですが、そこから得られた事実を要約すると・・・・

 

◆景行天皇は、周防佐波(現在の田布施のあたり)の出身であり、何年もかけて九州一帯を占領し、略奪していった職業軍人であり、奈良に滞在して統治したという記録はどこにも無い。

 

◆『ウエツフミ』にも、彼のこと、あるいはその祖先のことを述べていると思われる描写がある。

いわく「山口県(アナトの国)で、31歳の地方豪族・玉浦の四郎(タマラノヨロ)という若者が反乱を起こした」とある。

 

◆『宇佐家口伝』でも、景行天皇が何年も滞在して、略奪を繰り返したと伝わる。

ちなみにこのとき宇佐家は「田畑を差し出すので、ここで軍人さんが自ら耕作して、農民の土地を荒さないで欲しい」と懇願し、これが屯田兵の起源であると伝える。

さらに、景行天皇がウサツヒメをさらって拉致していったとする。(天種命ではないことに注目!)

 

◆落合莞爾先生は、彼のことを「崇神天皇が朝鮮半島の羅津から呼び寄せた八幡騎馬隊の隊長である」と言っている。

 

◆彼の息子とされるヤマトタケルの足跡を辿っても、鹿児島の熊襲退治に始まり、後半は関東から東北へと出兵しており、奈良には何も記録を残していない。

 

◆なのに、景行天皇の墓だけは、奈良の「山邊道上陵」にある。

 

以上の事実から得られる結論は、落合莞爾先生の説くとおり、崇神天皇が奈良に滞在して政務を取り仕切り、景行天皇は各地に遠征して反乱豪族の鎮圧にあたった職業軍人であり、のちにその功績により「天皇」という称号が与えられた。

 

さらに、崇神天皇と景行天皇は同族、あるいは同盟関係にあり、同時代の人物だった。

 

ちなみに、私は崇神天皇のことを徐福の子孫である中国王朝の末裔だと睨んでいますので、ここで徐福一派と、朝鮮半島のヒボコ族が結託して、日本を占領していったと考えています。

⇒私の過去記事『崇神天皇は日本人ではない!』を参照

 


飛鳥時代の名門豪族六家とは?

さてさて、とても長い文章となってしまいましたので、章を改めましょう。

 

次回は、

飛鳥時代に活躍していた名門豪族とは?

その始祖は誰だったのか?

その本拠地はどこにあったのか?

その伝承内容とは?

それはどんな書物に反映されているのか?

 

これらを明らかにすることにより、古代日本の骨格がおぼろげながら見えて来るからです。

 

次稿は、「各論」として近日公開しますので、お楽しみに・・・・

 


コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    饒速日は総理大臣 (木曜日, 01 2月 2024 00:17)

    明けましておめでとうございます。
    ホツマツタエは江戸時代に流行った古文書の創作小説です。
    崇神天皇の時代に凶作と飢饉と疫病を大田田根子が解決しています。
    景行天皇の子供が日本武尊です。
    短縮したニギハヤヒと呼ばれる長い漢字の名前は内閣総理大臣という役職名で別名は事代主神です。