ウガヤフキアエズ王朝末期に起こった『神武東征』、
それは王朝にとっては未曾有の大事件であり、
同時に、王朝の存在自体を揺るがす死活問題でした。
しかし、『古事記』や『日本書紀』は、その真相をほとんど伝えていません。
それどころか、隠蔽しようとしている姿勢さえ見受けられます。
そこで、『ウエツフミ』の膨大かつ正確な記述をもとに、素人ながら私が現代語に翻訳にしてみました。
すると、当時の人たちの動きや感情が、鮮明に蘇ってきたのです。
まず、『ウエツフミ』の記述が、『古事記』や『日本書紀』とは、どう異なっているのか?
そのポイントを箇条書きにしておきます。
<あらすじ>
◆そもそものきっかけは、天変地異による大飢饉だった。
◆第71代ウガヤフキアエズの命や皇族たちが、豊の国から全国を巡幸して、食料確保の指導を行なっていた。
◆その途中で、関西の長脛彦(ナガスネヒコ)と新羅の連合軍が、五瀬の命を襲撃して戦死させる。
◆長脛彦は、新羅にそそのかされ、天皇家を滅ぼして、自分がそれに代わろうとしていた。
◆彼はニギハヤヒの子孫ではない。その持っていたご神宝の弓矢は、斑鳩山から盗んだものだった。
◆しかし、弟の日高狭野=ヒダカサヌらを中心とする皇軍に滅ぼされ自殺する。新羅軍も一掃される。
◆日高狭野の兄弟たち、稲飯と三毛入野は、「熊野の海戦」で、新羅の船団50隻を全滅させるが、自らも犠牲となり、英雄として熊野神社に祀られた。
◆この日高狭野こそが神武天皇であると記紀は伝えているが、ウエツフミにはこの呼称は存在しない。
◆日高狭野は、いったん豊の国に凱旋帰国して、人民の歓待を受ける。
◆しかし、占いにより再び奈良・吉野山への遷都を決意する。(まだ天変地異が続いていたので)
◆橿原の地で第73代ウガヤ天皇に即位するが、ここでウエツフミの記述は終わる。
(つまりウガヤフキアエズ王朝は滅ぼされたが、その経緯はどこにも書かれていない)
では、なぜこのような食い違いが生じるのでしょうか?
その理由は、下記の一言が説明しています。
「歴史とは、ときの権力者の血統書である。」
それでは、ちょっと長くなりますが、ウエツフミの詳細な記述を、現代語訳で見てゆきましょう。
きっとあなたは、驚くと同時に、先祖たちの勇猛果敢な行動に、感動すら覚えることでしょう!
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