熊襲とは、熊毛王国と薩摩隼人との連合軍だった。
つまり明治維新の「薩長連合」と全く同じ組み合わせである。
この勢力が、九州を統一し、そして畿内に東征して、大和王朝を樹立した。
そして、今の天皇家の基礎を作った!!!
すみません、すごく複雑で、かつデリケートな話なので、発表しようかどうか迷いました。
これまでの私の研究メモとして、その概略だけを書き残しておきます。
◆「熊毛王国」は、山口県の南部海岸線から北九州にかけて実在した地方勢力であった。
「田布施町の怪」を知っておられる方はピンと来ると思うが、この地は現代でも天皇家(特に南朝)と密接な関係がある。
◆古代天皇家は、この「熊毛族」を兵力として味方につけ、(あるいは熊毛族そのもの?)、田布施近くの防府市佐波(さば、日本書紀の表記では周芳娑麼)で挙兵した。(この熊毛族はその後平家となる?)
◆なぜそう判断したかというと、景行天皇がどこからやってきたのか? が全く説明できないからだ。
⇒九州から出た勢力なら、九州を平定する必要は無い。
⇒特に、博多あたりに居たのなら、わざわざ船を使って遠い対岸の山口県にまで渡る必要は無い。大分を攻めるなら陸路で充分である。
⇒近畿からやってきた勢力なら、なぜヤマトタケルは近畿を攻める必要があるのか?
⇒つまり、景行天皇は、まるで“ホームレス”なのである。
だから、挙兵の地=住んでいた所と解釈するのが自然であろう。
※ちなみに、古語で「五月蝿(さばえ)なす」とは、「うるさい」の語源としても有名だが、本当の意味は「梅雨時の五月になると物が腐り、蝿や蛆がたかって醜悪な状態になること」を言い、「反乱軍が挙兵する気配」の枕言葉として使わていた。だから「越の国」の継体天皇が挙兵した地も「鯖江」である。これは藤原氏のイタズラであろう。
事実、ウガヤ王朝の末期には、この地に反乱勢力があり、戦闘があったという記録が「ウエツフミ」にある。
◆そこから対岸の「豊の国」に侵攻し、ここにあった「ウガヤフキアエズ王朝」を滅亡させた。
◆その内容は、日本書紀の「景行天皇」の段などに書かれているとおりだが、まったく同じ記述が「ホツマツタエ」にも存在することから、当時としては一大事件であった。
◆このときに、「ウガヤフキアエズ王朝」最後の女王「神夏磯媛(カムナツソヒメ)」が降伏して、人民の統合のシンボルである「八咫鏡」を渡してしまう。
◆「八咫鏡」は天孫降臨の際に、天照大神がニニギの命に手渡したご神体であるが、これを所有する者に対して人民が服従するという不思議な力を持つ。
つまりユダヤ人が探しているアーク=聖櫃と同じ効力がある。
◆この鏡を手に入れた古代天皇家は、急激に勢力を増して、一気に豊の国の「土蜘蛛族」を攻め滅ぼす。
◆さらに南下して、鹿児島付近に居た「熊襲」を服従させる。滅ぼしたのではなく味方につけた。
ちなみに、当時の大隈国は「ウガヤフキアエズ王朝」の一部で、この王朝は大分・宮崎・鹿児島東部に広がる大帝国であった。
一方、霧島連峰の西側には、外国人勢力が帰化しており、これが本来の「熊襲」ではないか?(調査中)
◆「熊襲」を服従させる経緯は、日本書紀の「景行天皇」後半の「ヤマトタケル」に詳しい。
この熊襲の首領が「クマソタケル」であり、「ヤマトタケル」に殺害されて、死ぬ直前にその名前を贈ったと書かれているが、これは全くのウソである。(大和朝廷の出自をごまかすための創作である。あなたがもし天皇だったら自分の滅ぼした部族の名前を使いますか?)
◆本当は「クマソタケル」は殺されておらず、このときから「ヤマトタケル」に名前を変え、天皇家に従って九州平定と畿内統一の陰の立役者となった。(その後源氏として活躍?)
◆ウエツフミの世界では「建=タケル」とは、領主にあたる地位や役職を指す一般名詞で、固有名詞ではない。
つまり、クマソ県の知事が、ヤマト県の知事に大抜擢されたと読むべきである。
◆さらに、「古事記」には「隼人」の由来が書かれているが、賊軍ならばわざわざ正史で取り上げることは無い。つまり天皇家の味方であり、最大の功労者であった。
ここに、熊毛王国=薩摩隼人連合軍が誕生したのである。
◆この連合軍は、日本統一を成し遂げ、その後「南朝」として存在し続け、近年になってからは明治維新の原動力として活躍する。
◆最後に、なぜこのような歴史を隠そうとしたのか?
多分、熊毛王国=薩摩隼人連合軍とは、外国人勢力だったのではないか?と思われるが、現在調査中。
以上ですが、「なぜそうなのか?」「その証拠とは?」
これから徐々に書き加えてゆきます。
<最終結論>
その後、私はあるひとつの結論に至りました。
興味のある方は、下記からどうぞ・・・・
「今夜のイノコ」は、
景行天皇が土蜘蛛族を滅ぼしたことをお祝いする祭りである。 >>>詳細をみる
クマチュウ (金曜日, 06 9月 2013 11:41)
我が生まれ育った熊毛にそのようや由緒があるとはびっくりデス
まつ (金曜日, 07 2月 2014 20:05)
熊毛の奥に祖生という場所があり、神武の兄弟と言われるミケイリノ命の降臨の地があります。それも近くの山に猿が拝んでいたことから(サルオーガミ)という場所があります。この祖生という場所から流れる島田川沿いから~田布施までの周防国は妙です。
田布施の地・・カラト水道・・石城山・・いろいろ調べていましたが・・ブログを見て
ヒントがありました。有難うございました。これからも楽しみにしています。
クマチュウ (月曜日, 28 7月 2014 13:04)
熊毛郡平生町の熊毛南高校が、あと一歩で夏の甲子園に出場できるところでした。
全国に熊毛の名前をアピールできる機会でしたが、惜しかった・・・。
Hitoshi Yokoo (火曜日, 14 7月 2015 12:34)
熊毛出身の者ですので、故郷に関する記述には、関心があります。
歴史の真実は、どのようにして顕かになるのでしょうか。疑問があれば、納得がいくまで現地に赴き、眼前の対象が自ずから「真実」を告知するまで「待つ」しか方法はないのでは、と考えます。研究とは、祈りにも似た行為にさえ思えます。さもしい「企み」等で「歴史」が騙られことだけは、赦されないことだと思います。