以前から、私のなかで解決できないある疑問が存在していた。
それは、「なぜ?こんな険しい山の中に、古代文明が発達したのだろうか?」・・・という謎である。
祖母山から発祥したウガヤフキアエズ王朝は、当然「山の民」だろうと思い込んでいた。
しかし、その皇祖であるトヨタマヒメは綿津見神(ワタツミの神)の娘であり、竜宮城伝説をはじめとする海の神話と深く結びついている。
つまり、ウガヤフキアエズ王朝の人々は、もともと「海洋民族」だったのである。
大野川の中流域、菅尾と千歳村の境あたりに「浅瀬・宇対瀬(うたいぜ)」という集落がある。
地元の友人からこのあたりを案内してもらった私は、自分の耳を疑った。
「かつては、ここまで川舟が上がってきた!」というのである。
大野川は高低差の少ないゆるやかな流れである。
多くの物資を満載した川舟が、別府湾から遡上して、このあたりまでやってきたらしい。
さらに、菅尾や千歳村で収穫された豊かな農産物が、川を伝ってそのまま瀬戸内海経由で関西あたりにまで出荷されていたというのだ。
ここは、かつて物流の中継基地があった場所で、いまでも裕福な豪農が点在する。
とすれば、この川舟は少なくとも緒方町の「沈堕の滝」あたりまでは、上がって来れたに違いない。
緒方三郎惟栄が、源氏方の船団を指揮して平家軍と戦ったという史実も、納得できる。
つまり、大野川と瀬戸内海の間を、自由に行き来できる「水軍」が存在していたのではないか?
この「水軍」が、宇佐や臼杵の港あたりまでも頻繁に往来し、さらに瀬戸内海一帯を支配していたのではないか?
この水軍が、平安時代には「藤原純友の乱」を支援し、さらに戦国時代には「村上水軍」となった可能性もある。
陸上交通のみに注目していた私には、まさに目からウロコだった。
ウエツフミの記述にあるように、ウガヤフキアエズ王朝が日本全国を統一することができたのは、その「海運力」と水軍による「軍事力」のお陰だったと結論することができるのだ!
もし私の推論が正しいとするならば、このあたりにもウガヤフキアエズ王朝の痕跡を示す遺跡や神社が存在するハズである。
私と友人は、この宇対瀬(うたいぜ)の集落を見下ろす小高い山の上にある「白鹿山妙見寺」へと向かった。
ここは標高260mほどの小山だが、このあたり一帯の豊かな大地を一望できる絶景の場所だ。
かつて、ここで捕獲された「白鹿」が朝廷へ献上されたという伝説や、大蛇の伝説も残っている。>>>詳しくはこちら。
対岸には「六字名号」の岩に彫られた「南無阿弥陀仏」の6文字や、「菅尾石仏」も見える。>>>詳しくはこちら。
古代人たちが、その信仰の痕跡を残すには最適な場所に違いない。
するとやはりあった!
まず、白鹿山妙見寺の市営駐車場の一角(南東の隅)に、お寺にしてはいかにも不自然な、女神様のような木像が安置されているのだ。
その木像には何の説明も無いが、明らかに「トヨタマヒメ」のお姿を彷彿とさせる。
もしかして?と思い、この木像の安置された方角を友人に確認してみると、やはりまっすぐに「祖母山の山頂」を指しているという。
つまり、「祖母山頂に祀られた豊玉姫」を拝むための遥拝施設なのだ。
そんなに古いものではなさそうだが、祖母山とトヨタマヒメとの密接な関係をよく知っている人が設置したことは明らかだ。
さらに、お寺の裏手にある山頂まで登るとそこに小さな祠があった。
ここには「愛宕様」が、菊花の御紋章のついた石祠に祀られているが、その右側にある小さな脇神に目を奪われた。
明らかに古代の装束を纏った女神様と、その両脇を固める右大臣、左大臣の石造である。
これこそが、トヨタマヒメとその右大臣・中臣氏、左大臣・物部氏の三神であろう。
やはり、大野川の水上交通を支えた一族と、ウガヤフキアエズの神々との間には密接な関係があったのだ。
祖母山→竹田→大野町→緒方町→三重町→大分→臼杵→宇佐、
ウガヤフキアエズ王朝の重要拠点は、全て「水上交通」でつながっていた。
大野川、それは大自然が作った長大な「運河」であり、
中国に文明をもたらしたという黄河と揚子江は、ここ大分の地にも存在していたのだ!
この大野川の渓流に鍛えられ、操船技術に長けた海洋民族たちが、やがて瀬戸内海を支配下に収め、全国統一へと向けて旅立ってゆく様子が、白鹿山からの雄大な景色を背景に、くっきりと浮かび上がってきた。
唐飛 (日曜日, 09 2月 2014 18:56)
想像は知性をもつ種の特権だが、
繁栄の後の崩壊
ウガヤフキアエズに
ほくらは
何を学べるのだろう・・・・
かは別として
木耳姫は御釈迦様ではなく
豊玉姫の化身かもしれぬ・・
これは妄想・・・