いろいろと調べてゆくうちに、宇佐神宮は新羅によって乗っ取られた可能性が高いことが判明しましてので、ご報告致します。
そういえば、つい最近(2014年)になっても、宇佐神宮では“神義なき戦い”が繰り広げられていますが、まさに奈良時代の大神比義から続く因縁が、今になって再燃したと見るべきでしょうね。
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1401190103/
日本人の私としては、「宇佐神宮を本来の姿に戻して欲しい!」という願いを込めて、この原稿を発表させていただきます。
八幡神とは新羅の神様である
まず、何よりも大切なことは、八幡神は新羅の神様であるということです。
これは、私が主張している訳ではなくて、八幡様自身がそう語っているのです。
信じられないという方も多いかと思いますので、宇佐神宮に古くから伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』を見てみましょう。
もちろん原文で・・・・・
ちなみに、ご託宣とは、巫女を通して伝えられる神様自身のお言葉です。
◆山口大学編集の 『八幡宇佐宮御託宣集』託宣・示現 年表 平成25年5月20日
例えば804年、最澄が唐に渡る前に、この宇佐八幡に挨拶に立ち寄っていますが、その際のご託宣が、下記のとおりです。
示現して言く。「此より乾方に、香春と云ふ所に、霊験の神座まさしむ。新羅国の神なり。吾が国に来往す。新羅・大唐・百済の事を、能く霊知せらる。其の教を信ずべし」てへり。
(八幡神が)お姿を現してお告げになりました。「ここから北西の方角に、香春という場所があり、霊験あらたかな神座がある。新羅の国の神様である。我が国にやってきた。新羅や唐や百済のことはよく知っているので、その教えを信じなさい!」・・・・と、言っているのであります。 (筆者による現代語訳)
このほかにも、何度も繰り返して、いろんな人に「(我は)新羅国の神なり」と、言っています。
ご本人自身が・・・・・
これ以上、確かな証拠があるでしょうか?
その他、「八幡神は新羅発祥である」という記事は、Web上にもあふれています。
http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html
http://ameblo.jp/taishi6764/entry-11893322637.html
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hachiman-kawara.html
なぜこんな重要なことが、日本人には知らされていないのでしょうか?
八幡神を新羅から連れてきたのは大神比義という謎の人物である
さてさて、それではこの八幡神を新羅から連れてきた、大神比義という人物は、いったい何者なのでしょうか?
実は、wikipediaにさえも、この人物の記述が全く存在していません。
本来ならば、“八幡教の教祖様”なのですから、熱烈な信者たちがその威徳を称えるハズなのですが、どういう訳かそうなってはいません。・・・・なぜ?
通説では、大和三輪山から出た大神(おおみわ)氏の一族とされていますが、これに対する異論が多いのも事実です。大神氏系図にも、比義は「どこの国人か知らず」と書かれており、あまりにも冷たい処遇になっています。
http://www.usajinguu.com/kajiou.html
あからさまに「帰化人」だと決め付けている人も居ます。
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/24994945.html
いずれにせよ、豊後の本家・大神(おおが)氏(緒方三郎惟栄を出した家系)とは、何の関係も無いようです。
私は、この豊後・大神氏が第71代の吉野山遷都に伴って三輪山に移住したのではないかと考えていますが・・・・。
http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/kenkyushitu/saburoken3.htm
この大神比義なる人物、私の推測によると・・・・・
◆新羅国の諜報員として、「日本の古神道を破壊する」という工作活動に従事。
◆いつのまにか、宇佐神宮の宮司として潜入することに成功。
◆571年、突然“八幡神が降臨した”と主張しはじめ、古来からの神様と無理やり習合させる。
◆それまで宮司を務めてきた宇佐氏を外しにかかる。
◆そして、神からの御託宣を受け取るシャーマンの地位を独占。
◆新羅国の意向のかかったニセ御託宣をつぎつぎと発して、神道体系の再構築を図り、皇室の人事にまで介入。
◆日本国を間接統治することに成功した新羅国側の英雄。
◆その後、新羅=北朝鮮は、彼に関する公式記録を抹消して証拠隠滅を図った。
ということになります。
ちょうどこの頃から、
◆「遣唐使の開始 (630年)」・・・・・隋にかわって新たに建国された唐に近づこうとしたが、逆に唐は新羅と組んでしまう。
◆「大化の改新 (646年)」・・・・・蘇我氏と藤原氏(この頃から藤原氏も乗っ取られた?)との争いが勃発したが、結局新羅寄りの中大兄皇子が政権を握ってしまう。
◆「白村江の戦い (663年)」・・・・日本=百済連合軍が、唐=新羅連合軍に大敗。
(ちなみに百済はもともと日本国の領土・任那の跡地なので、日本の影響力が完全に大陸から排除された)
という、わが国の国体を左右する一連の大事件がたてつづけに勃発します。
当時、国力の衰退していたわが国は、この頃から事実上、唐=新羅連合軍の支配化に入ってしまったのです。
ここから、日本の歴史のなかにも、唐や新羅の意向が大きく入り込んでくることになります。
だから、
◆「古事記 (712年)」・・・・新羅の勢力が新羅向けにまとめた改ざん歴史書
◆「日本書紀 (720年)」・・・・唐の勢力が唐向けにまとめた改ざん歴史書
だと、私は主張しているのです。
ところで、現在でも北朝鮮による「日本国の間接統治工作」は、脈々と引き継がれているというウワサを耳にしたことがあります。
彼らは、潜入活動に成功すると、その印(しるし)としてピンク色の旗を揚げるというのです。
例えば、成田山新勝寺で豆まきが行なわれるとき、著名人たちがまとっている裃(かみしも)は、ド派手なピンクではありませんか?(つまりタレントやスポーツマンたちが北朝鮮をお祝いしているように見えるらしい)
創価学会の広報誌にもピンクの旗がやたらに登場していませんか?
朝鮮総連の跡地を買い取ろうとした謎の坊主、そのお寺はピンクの旗に囲まれていませんか?
トヨタのクラウンが、突然ピンクのボディーカラーを発表したのも、北朝鮮発祥の電通と何か関係があるのかもしれません。
いずれにせよ、北朝鮮の人たちは、日本でピンク色の合図が上がると、「ああ、同胞たちが活躍しているな!」と歓喜にむせぶらしいのです。
・・・・事実かどうかは不明ですが。
もともと宇佐神宮には宗像三女神が祀られていた
さて、それではわが国の正統な歴史を伝える『上記(ウエツフミ)』には、宇佐神宮はどのように書かれているのでしょうか?
宗像本【第2綴】第10章には、
天照大神とスサノオの命が行なった「神生みの神事」から、
◆長女 多紀理比売 (タギリヒメ)・・・・奥津宮(青玉)
◆次女 狭依比売 (サヨリヒメ)・・・・中津宮(紫玉)
◆三女 多岐都比売 (タギツヒメ)・・・・辺津宮(八咫鏡)
のいわゆる「宗像三女神」が生まれ、
その説明として、
「また、豊日の宇佐に座します神なり」
と書かれています。
つまり、この3人のうちの誰か?またはこの3人の全員が、ここ宇佐の地に祀られていたことになります。
そして、その御身代(みみしろ)つまり神様である印として、青玉と紫玉と八咫鏡が、この3ヶ所に置かれていたと書かれています。
この「宗像三女神」については、古事記や日本書紀にも記述があるものの、その名称と順序がバラバラで、いったい誰が何処にいたのか?は、文献の解釈からは大混乱をきたしています。(あえてそうなるよう仕組まれているのかもしれませんが・・・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E4%B8%89%E5%A5%B3%E7%A5%9E
そこで、私の解釈ですが・・・・・
◆長女のタギリヒメは、現在の宗像大社(福岡県)のある沖ノ島の沖津宮に祀られていたことは間違いないようです。
◆次女のサヨリヒメは、古事記にもあるように別名イチキシマヒメと解するのが自然で、現在の厳島神社(広島県)ではないかと考えています。(イチキシマが厳島=イツクシマに転じた)
◆そうすると、残る三女のタギツヒメこそ宇佐神宮(大分県)のご神体であった、という結論になります。
なぜならば、その根拠として・・・・・
◆「この3人で瀬戸内海の交通の安全を守っていた」という記述もあるので、3人が一カ所に固まって現在の宗像大社に祀られているという解釈では、広い瀬戸内海をカバーできないことになります。
むしろ、私の解釈を地図上にプロットしてみると分りやすいのですが、この3人がそれぞれ瀬戸内海の要所(出入り口となる狭い海峡=瀬戸、だから瀬戸の内にある海という意味で瀬戸内海となった)に配置されていたとみれば、その役割も明確になってきます。
◆第12代景行天皇が(この方も新羅の側と私はにらんでいるのですが)、大分の地に侵攻してきたとき、地元の神夏磯媛(カムナツソヒメ)が「八咫鏡」を捧げて登場します。
⇒詳しくは、こちら。
さらに、ウエツフミの別の記述では、ニニギの命が天孫降臨したあと「八咫鏡を大分の御宝山に置いた」とも書かれています。
⇒詳しくは、こちら。
つまり「八咫鏡」は、もともと大分県にあったのです。
だから、宇佐神宮は、八咫鏡を御身代(みみしろ)とした多岐都比売 (タギツヒメ)の辺津宮であると解釈するのが相当であると考えました。
つまり、宇佐神宮=タギツヒメとは、天照大神のご神体である八咫鏡を守って、そのご託宣を聞くことができる、最初の巫女=シャーマンだったのであり、その伝統が現在の宇佐神宮にも脈々と引き継がれているのです。
そして、その重要なポジションを奪って神のご託宣を聞くことができる立場になれば、日本人を支配できると考えたのが、新羅国のスパイであった大神比義だったのです。
<追記>
その後の調査で、宗像三女神はやはり宇佐の地に祀られていることが分りました。
御許山【大元神社】・・・・・こちらのブログを参照。
それでは、源氏とは何者か?
さてさて、このように見てくると「八幡大菩薩」を、戦の神様として深く信仰していた源氏の一門とは、新羅国発祥の軍人集団である可能性が強くなってきます。
あるいは、源氏とは新羅国側の進駐軍であったのかもしれません。
その証拠として、彼らは大陸から伝わった馬による攻撃を得意とした騎馬集団であり、船団による水軍を得意とした平家一門とは一線を画しているからです。
平家物語にもこうあるではないですか・・・・
「沖には平家、船端をたたいて感じたり。陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。」
さらに、宗教的にも対立する比叡山の影響を避けるため鎌倉に遷都。
逆に、禅宗を厚く保護して唐・新羅との連携を図ります。
それまで廃れかけていたイチキシマヒメ=厳島神社を厚く信仰して隆盛を極めた平清盛(ある坊主がこの神社を復興するよう進言したと平家物語にあります)、それが、新羅発祥の八幡神を担ぐ源氏に滅ぼされてしまったことは、まさに歴史の転換点でもあるし、ある意味「日本の神様と新羅の神様との戦い」であったのかもしれません。
ちなみにこのときの「壇ノ浦の合戦」で、幼い安徳天皇とともに「三種の神器」が海中に沈んだと伝えられていますので、平家こそ正統な皇室を守っていたのであり、源平合戦とは新羅の傀儡政権=源氏による内乱クーデターであったと見ることもできます。(多分、すごい少数説ですが・・・・)
だからこそ、源頼朝の命令で、相模の国から豊後の国に赴任してきた大友能直(頼朝の次男とウワサされる)は、『上記(ウエツフミ)』の編集者でもあるのですが、同時に、(新羅の意向を受けて)この大切な歴史書を永遠に封印してしまったのです。
1600人のサンカ(山窩)たちを大虐殺してまでも抹消しようとしたその記録とは、新羅の側からみれば、「日本人の心のよりどころであり、そのルーツが書かれた大切な聖典」だったに違いありません。
最後に、これこそ私の山勘ですが、『上記(ウエツフミ)』の全貌は、まだ正しく伝わっていないような気がします。
私が、もしも大友能直だったら、最も重要な部分は必ず破棄することでしょう。
でも、ご安心ください。
きっと、どこかで密かに守り続けている人たちが居るハズです。
なんだか、そう思えて仕方ないのです。
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