さてさて、皆さんは「海幸と山幸」の物語をご存知でしょうか?
兄弟が、釣針と弓矢を交換して、弟が釣針を無くしたので、竜宮城まで探しに行く・・・・という逸話で有名ですよねえ。
ところが、『古事記』には、もう一人の兄がいて「三人兄弟」であったと書かれているのです。
それは、なぜでしょうか?
このことを深く突き詰めてゆくと、「日向族 vs 隼人族」の争いが見えてくるのです。
非常にややこしいお話なので、順番にみてゆきましょう。
古事記の「海幸と山幸」のあら筋
(1) ニニギの命と、木の花咲くや姫との間に、下記の三人の子供が生まれたと書かれています。
長男・火照(ほでり)の命-----海佐知(隼人の祖)
次男・火須勢理(ほすせり)の命
三男・火遠理(ほおり)の命----山佐知
でも、『ウエツフミ』には、この長男の記述は無く、次男のホスセリが海彦だとしているのです。
『古事記』には、長男と三男だけが大活躍で、次男の記述はほとんどありません。
『日本書紀』では、異説がいろいろと書かれており大混乱しています。
この次男・ホスセリが海彦ではないのなら、いったい誰だったというのでしょうか?
なんだか不自然だと思いませんか?
(2) 長男と三男は、お互いの釣針と弓矢を交換しますが、三男がその釣り針を無くしてしまい、竜宮城まで探しにゆきます。
そこで出合ったのが、豊玉姫とその父・ワタツミの神です。
>>> 詳しくは、こちら。
(3) そして、三男は釣針を発見して帰ってくると、ワタツミの神から教わったとおり
◆呪文を唱えながら「後ろ手」に釣り針を兄に返し、
◆兄の田んぼは三年以内に不作になるので、(自分の田は高さを違えて)
◆それを恨むようなら、お土産の「潮満玉と潮干玉」を使って長男を懲らしめて、
◆貧乏になった長男を、とうとう服従させて、自分の補佐役にしてしまいます。
つまり、仕返しに成功したと書かれているのです。
(えっ、天皇家ってそんな意地悪な家系でしたっけ?)
上記(ウエツフミ)との比較
(1) ウエツフミでは、火照(ほでり)または火明(ほのあかり)は存在せず、火須勢理(ほすせり)の命と火遠理(ほおり)の命の「二人兄弟だった」と、ハッキリ書かれています。
(2) 竜宮城に関する記述はほぼ同じなので省略。
(3) この部分が全く違っています。
海幸彦と山幸彦は大変仲のよい兄弟で、決して争うことはありませんでした。
それどころか、兄は弟の人並み外れた人徳を認め、皇位継承権を譲ろうとするのですが、山幸彦自身が「自分は弟だから」という理由でこれを固辞して、20年ものあいだニニギの後任が決まらなかったといいます。
兄はそれを嘆いて『天の岩戸』に篭って反省までしています。
(こちらのほうが、ずっと天皇家らしい!)
(4) さらにこのあとの記述が重要です。
山幸彦が第二代に即位したあと、夜須勢理(よすせり)の命が反乱を起こします。
ヨスセリの身元は不明ですが、禍(まがつ)神であると書かれており、草木根の国(現在の関西地方)で、三千人規模で蜂起します。
そこで、山幸彦は部下を引き連れて成敗に向かうのですが、常陸の国でとうとう降参させて、この謀反を鎮圧します。
問題は、このときの攻め方です。
古事記の(3)で書かれている方法と全く同じであり、「潮満玉と潮干玉」を使った独特の呪術的方法で、ヨスセリを攻めているのです。
つまり、この2つの記述は全く同じものであると断定してもよいでしょう。
以上から導かれる結論
さてさて、この2つの記述の違いをつぶさに観察すると、下記の結論が導かれます。
つまり、古事記を書いたのは隼人だったということになります。
ポイントは、火照(ほでり)なる架空の人物が、隼人の祖先であることと、弟にいじめられて皇位につけず、補佐役に廻ったことです。
(1) 古事記の作者が、実際には存在しない長男・火照(ほでり)を捏造したのは、隼人の祖先が皇室とつながることを証明したかったから。
(2) この隼人の祖にされた長男・海幸彦を、三男である山幸彦が、いじめて服従させたという架空の記述を追加することにより、隼人が皇室に服従させられた(痛恨の)経緯を説明しようとした。
(3) ところが、山幸彦が実際に攻めたのはヨスセリという反乱者だった。
(4) つまり、隼人=ヨスセリ=反乱勢力ということになる。
(ウエツフミの記述が正しいと仮定すると)
(5) だから、大化の改新後に政権奪還に成功した隼人たちは、稗田阿礼に命じて、この「ヨスセリ=隼人の反乱」という記述を削除させ、海幸彦と山幸彦の確執というストーリーに変えた。
その際に、自分たちが散々手を焼いた山幸彦の新兵器「潮満玉と潮干玉」のクダリをそのまま拝借して捏造した。
そうです、段々と古代史の真相が分ってきましたか?
つまり、犯罪者が原文である『ウエツフミ』をコピペして、『古事記』という偽造歴史書を作ったが、あとからその原文が出てきたので、犯罪者の意図まで丸裸になってしまった。・・・・ということですね。
まさに、「過ぎたるは、及ばざるがごとし」の例えどおりとなってしまいました。
まだピンと来ていない人のために、もう一度整理しますと・・・・・
◆古事記の作者は、実在しない長男を付け加えて、
「オレタチ隼人の祖先は天孫なんだぜ!しかも長男だから皇位継承権No.1だった!」と、自慢した。
◆「だけど山幸彦という悪い弟にイジメられ、皇位を奪われて、補佐役に廻ったんだ。」と、嘆いた。
◆でも、実際に山幸彦がイジメたのは、ホスセリではなく、ヨスセリというよく似た名前の別人だった。
◆だから、「あんたら隼人の祖先は、ヨスセリという謀反人じゃないの?」と、疑われてもしかたない。
・・・・ということですね。
その後の隼人の流れ
もしも、私の推論が正しいとすると、これはもっともっと大きな事件へとつながってゆくことになります。
それは、景行天皇=日本武尊=仲哀天皇=神宮皇后=武内宿禰らの反乱です。
なぜなら、この「タラシヒコ系」の天皇たちは、隼人の直接の子孫、あるいは隼人を軍人集団として利用した可能性が高いからです。
このことは、以前にも詳しく書きましたので、興味のある方は、こちらから。
だからこそ、景行天皇の時代になって急激に勢力を盛り返した隼人族の子孫たちが、日向族の本拠地であった九州一帯と、その移転先であった関西一帯を攻撃し、政権奪取に成功したのです。
しかも、この隼人族たちは、新羅の勢力と密接にかかわっている可能性があります。
もしかしたら、北朝鮮勢力そのものかもしれません。
※だから『古事記』の天孫降臨の地に関する記述に、「ここは韓国に向かい」と書かれている。
※『日本書紀』や『新撰姓氏録』によると、雄略天皇の時代に、秦氏が酒氏の奴隷となって「太秦」を名乗ったときに、隼人が活躍したと書かれているので、京都を本拠地とする秦一族との関連もありそうだが、現在研究中。
いずれにせよ、この隼人=北朝鮮連合軍が、古代から存在した正統な皇室である日向族=ウガヤフキアエズ王朝を滅ぼして、その後、歴史を書き換えてしまったことは、ほぼ間違いないようです。
そして、この勢力がその後、源氏となり、藤原氏となり、南朝となり、織田信長=豊臣秀吉となり、つい最近では明治政府となって、日本史のなかに脈々と存在し続けているのです。
隼人とはいったい誰なのか?
それでは、「隼人とはいったい誰なのか?」という疑問が残ります。
つい最近まで、私自身も隼人=鹿児島県人だと思い込んでいました。
「薩摩隼人」という言葉に洗脳されていました。
でも、結論から先に言うと、関西を本拠地とするニギハヤヒ=ナガスネヒコの一族だったという可能性が浮上してきたのです。
その根拠は、下記の通りです。
◆ウエツフミに書かれたヨスセリの反乱ですが、「草木根の国」(現在の摂津~和歌山にかけての大阪湾岸沿い)で、勃発しています。
ほかの地方で蜂起して、関西まで移動してから反乱を起こすことは考えにくいので、ヨスセリがこの地方の豪族であったと考えるのが自然です。
しかも、この土地はニギハヤヒが降臨した場所なのです。
(ウエツフミによると河内の交野に降臨したとあり、現在の磐船神社にあたる)
◆さらに、このことを裏付ける決定的な証拠が、ウエツフミの記述にありました。
つまり、火之明(ホノアカリ)とは、ニギハヤヒの別名だ と書かれているのです。
※『上記』宗像本37綴7章に、「お前の祀る神は誰だ?」と聞かれたナガスネヒコは、「天照国照彦天津火之明饒速日の命」と答えている。『日本書紀』が火之明を三男としているのが、いかにも不自然。
※『先代旧事本紀』でも同様の説明がされている。
◆なお、私と全く同じ説を展開している人がもう一人いました。
私がこの記事を書いたあとから発見したサイトですが、偶然にもホデリ=ニギハヤヒ説を主張しています。
⇒ 「日本書紀を読んで古事記神話を笑う」 http://www3.point.ne.jp/~ama/w76.html
◆鹿児島県には「隼人」のほかに、「熊襲」という別の種族がいます。
私の推測どおり、景行天皇=日本武尊が隼人だったとすると、この人たちが滅ぼした「熊襲建(クマソタケル)」という豪族とは敵対関係にあったこととなります。
狭い鹿児島に、この2つの種族がどう共存していたのかを考えると、なんだかモヤモヤしていたのですが、別の地域からやってきた種族であると割り切ることでスッキリしました。
※しかもヤマトタケルはクマソタケルから名前をもらったと日本書紀に書かれているので、両者は同盟国、もしくは隼人が熊襲を乗っ取った?
※『続日本紀』によると、714年に「豊前国から2百戸を移住させた」とあるので、このときに滅ぼされた熊襲にかわって、本物の隼人が乗り込んできた可能性がある。
※また『延喜式』によると、隼人には、畿内また周辺の諸国に戸籍のあるグループ(畿内隼人)が居たことが分っており、これが「隼人阿多の君」すなわちニギハヤヒを信奉する一族ではないかと考えられる。
http://homepage3.nifty.com/ayumi_ho/kuwaharagun/hasigaki.htm
※さらに「正八幡鹿児島神宮」の由来には、「9世紀の隼人征伐の後、朝廷の命令で豊前・宇佐神宮から秦氏の辛島一族が入って八幡神を祭り隼人の霊を慰めた」とあることから、本来の土着の鹿児島人に代わって秦氏の勢力が入植した可能性が高い。
http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/hayato.html
以上から、
火照(ほでり)=ニギハヤヒ=ナガスネヒコ=物部氏=関西=隼人
という構図が見えてきます。
ちなみに、この隼人の子孫である長髄彦(ナガスネヒコ)は、ニギハヤヒを担いで関西で抵抗しますが、ウガヤフキアエズ王朝の奈良・吉野山遷都 (いわゆる神武東征)に伴い、五瀬の命に滅ぼされています。
その恨みが奈良時代まで続いて、『古事記』の捏造事件を引き起こしたと考えれば、すべてがうまくまとまってくるのです。
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