まず、この写真をご覧ください。
いったい、何に見えますか?
磨崖仏? モアイ像? 荒神様? お地蔵様? 翼の生えたスサノオ?
こんな摩訶不思議な石像が、大分県竹田市の深い山中の横穴から発見されているのです。
私は、ここを訪れたとたんに、「誰か、高貴な方のお墓に違いない!」と、確信しました。
理由はうまく説明できませんが・・・・・
まるで、エジプトのファラオたちの柩のような、静謐で荘厳な雰囲気にあふれていたからです。
しかも、この石像からは強烈なエネルギーが放出されており、その正面に立った私は、一瞬“立ち眩み”のように意識が遠くなりました。(私は決して霊感の強いほうではないのですがこれは不思議な体験でした)
そこで、さっそく『ウエツフミ』の記述内容をチェックし、歴代74人のウガヤフキアエズの命のうち、大分県竹田市に葬られた天皇は居ないか?を探しました。
すると、第33代・清之宮(スガノミヤ)姫の命という人が、この地で亡くなっているではないですか。
しかも、その記述内容と、遺跡の構造物、あたりの地理が、ピッタリと一致したのです。
それでは、今から約三千年ほど前に、この地で没した謎の女帝について、詳しく説明してゆきましょう。
石像の正体は、清之大神(スガノオオカミ)
まず、第33代・清之宮姫が生まれた時の逸話から説明する必要があります。
母君の第32代・花依姫が、ある夜、南の御殿にたたずんでいると、月の影が入ってきたのでそちらを見ると、大きな体で、とても恐い顔をした神様が現れて、姫君にこう言いました。
「私はそなたに幸運を与えよう!」
すると突然剣を抜いて、姫君を抱きかかえて、口からその剣を刺し貫いたので、
姫君は「キャー!」と叫んで、夢から覚めました。
するとほどなく花依姫は妊娠し、生まれたのが第33代・清之宮姫でした。
人々は、この神様は清之大神(スガノオオカミ)に違いないと話し合いました。
M29-2 (宗像本第29綴第2章より抜粋)
つまり、第33代・清之宮姫にとって、この清之大神(スガノオオカミ)は、霊界からの父親であり、守護霊であり、守り神だったのです。
だから、この石像は、母君の見たというご神体を、そっくりそのまま忠実に再現したものに違いありません。
この石像が、なぜ怒っているような恐い顔なのか?なぜ翼が生えているのか?・・・・・などなど余計な詮索は不要です。見た目そっくりそのままだったからです。
第33代・清之宮姫の治世
この清之宮姫、なかなかの名君だったようで、ウエツフミは多くの記述を残しています。
さらりと終わっている歴代天皇も多いなかで、これは異例です。
人民からの信望が厚かったという証拠ではないでしょうか?
とてもここには書ききれないので、その足跡をリストアップしておきます。
◆庭に花を多く植えて楽しむ。歌を作って遊んだ子供時代。M29-3
◆生まれながら、諸芸に長けていた。7歳で荒馬を乗りこなして、お付きの者たちから「うまし姫」と賞賛される。M29-4
◆19歳で、飢饉が到来し人民が飢えに苦しんだので、若年の神に祈祷を行い「来年は豊作になる」という神託を得る。さらに、三千人の家来を連れて全国を行幸し「種まきの神」となって作付け指導を行った。以下、誰がどこを訪れたのかの一覧が続く。実際に、ほとんど全国を巡幸しているので、この地から全国を統治していたことが分かる。M29-5、M29-6
◆20歳前に第33代に即位するが、年が若く、天皇になる資質(原文では神実とある)を満たしていなかったので、すでに50歳近かった神玉国光の命を、弥嚮男(よさきお=摂政)として夫に迎えた。周りの重臣たちはあまりの「年の差婚」に、離婚になるのでは?と心配したが、本人は「私に神実がないのに、どうして天下を治めることができるでしょう?あなたがたの助言はもっともですが、摂政に相応しいのは若い男ではなく資質のある人です。だから私はこの方を夫に迎えて、その資質を学びたいと思います。」M29-7
◆この神玉国光の命は、若いとき大隈国姶羅郷にいた禍物を退治している。M29-8
◆二人のあいだに第34代・八千尾亀之男の命が誕生する。M29-9
のちにこの34代は、大分県竹田市の三宅付近に大宮を置く。M30-11
⇒「直入のウマシ(場所不明だが上記の“うまし姫”の逸話から馬の付く地名か?)に大宮を置いたので、ここを三宅と呼ぶ」と書かれています。私は「用作公園」がこの大宮の跡地なのではないかと考えます。ここには馬場跡があり、つい最近、石棺も発見されています。
◆臣下の序列を定める。 M29-10
ここで、同じく竹田市にある「御祖神社」(この石像の裏手にある)の由来が語られている。
即ち、「ニニギの命は66歳で天孫降臨した。御子の山幸彦は210歳ほどで天下を治めた。孫の初代・ウガヤフキアエズの命は120歳。それ以降次々に天孫たちが天下を治めてきたが、私は今年で二十歳そこそこなので、これは天の罪である。しかし、御神祖の命たちが多く居るので多少は安心だが、人民に迷惑を掛けることになれば、私の罪である。だから天津高御座に御神祖の在座を定めて、私はその脇に鎮座する巫女となって、この高御座に登るので、摂政も並んで続くよう、云々」
◆さらに、「過去には外国人が襲ってきて人民を多く殺した。これは国が病んでいるからである。またやってきては大変なので、ここに命令を出す。」といい、「子供に薬を飲ませること、病気の者は絶食すること、年に応じて重いものを持たせること、日に3~4回背伸びをすること、朝晩には体操すること、昼間に仕事をすること、健康のため歩くこと、年をとったら杖で背中を叩くこと、そうすれば、人民たちは長生きできる。」
と、女性らしい実に細やかな指示を出しています。
⇒現在も竹田市が健康長寿の里であるのは、この指示を守り伝えてきたからかもしれません。
◆年に応じた人民の呼び方を定める。M29-11
⇒ちなみに、「赤ちゃん」と呼ばれるのは、このときに「誕生から3歳までを赤童わと呼ぶ」と定めた名残なのです。その他、31歳から50歳までを「益荒男」と呼んでいました。
◆外国人の侵略に備えて軍制と兵法を定める。M29-12
⇒当時のいくさの仕方がこと細かく書かれており、特に「強いものには曲げるな、弱いものには勝つな!」の教訓が印象的です。
◆人民が祀るべき神々のリスト(省略)M29-13
◆星神が人民の運命を司るとして、それぞれの星ごとの細かい説明(省略)M30-1~M30-10
いかがでしょうか?
まるで卑弥呼をほうふつとさせる名君ぶりではありませんか。
しかし、邪馬台国との関連性については、議論が多いところなので、ここではあまり詮索しないことにし、専門家の検証にお任せします。
重要なことは、このような女帝が、大分県竹田市を中心に君臨していたという事実なのです。
石像のある岩屋は何なのか?何に使われたのか?
さてさて、このように約220年にわたって天皇を務めてきた清之宮姫ですが、ついに最期のときが訪れます。
『ウエツフミ』には、享年241才とあり、臨終の日時まで書かれています。
そこで、皇族たちが枕元に集まって嘆いていると、摂政の神玉国光の命(上記参照)が、平然として「御禊ぎを行いましょう!」といい、直入の三宅の背山(三宅山の裏山の意味か?)の傍らの岩穴に、大分の速吸の門(佐賀関)から海水を運んで、これを暖めてお湯にし、清之宮姫の屍に注いで、禮衣(いやけし)を着させて、奥津喪家(おくつやくへ=あの世に旅立つための特別な部屋=棺桶)に安置しました。
自分自身もその海水の温め湯で禊を行い、禮衣を着て、奥津喪家に安座すると、
「私は天津御子を次々と守るための斎(いつき)として生きてきました。今、それが終わった。だから私も天に昇って、神々に報告する必要があります。必ず清之宮姫よ、昔のお約束に違いますな!」と、言い残して目を閉じて神上がりました。
だから、親族たちはこれを嘆いて言葉もありませんでした。
ここに大臣たちがヒノキで太御輿をつくり、2つの喪家を並べて安置し、大分の御宝山の上洞に埋葬しました。
(御宝山には歴代ほとんど全ての天皇が葬られています⇒詳しくは、こちら。)
ここからは私の推測ですが、この葬儀が行われた場所こそが、この岩屋だったのです。
だから、そこには清之宮姫の守護霊である清之大神が、あの世から見守っています。
さらに、近くには佐賀関から運んだ海水を貯めたと思われる人工的な窪地も見つかっています。
そして、棺桶を置いたと思われる正面の台座の上には、いまでも左側に清之宮姫の像、右側には摂政の神玉国光の命の像が、小さな祠のなかに安置されているのです。
多分この祠も、男性用の太御輿と、女性用の太御輿を忠実に再現しているものと思われます。
(下記の写真参照)
この石像には、赤い染料で彩色が施されていますが、今でもどこからか謎の人物が現れてメンテナンスを行っているらしいのです。これは多分“山窩(サンカ)”の皆様のお仕事によるものです。
さらに、このあたり一帯からは大規模な古墳群が発見されており、古代国家の中心地であったことを裏付けています。
それにしても、なぜ“海水”が必要だったのでしょうか?
しかも、通常の葬儀ならば、このような大袈裟な岩屋は不要です。
そうです、ここで行われたのは息呼ぶせの呪(いよぶせのまじ)、つまり死者復活の儀式だったのです。
だからこそ、逆に241歳まで生きることができたのかもしれません。
もしかしたら、エジプトのピラミッドも、このような使い方をされていたのかもしれませんが・・・・?
そして、すべてはその時のままに、約三千年の時間だけが経過しているのです。
最後に、みなさんにお願いがあります。
この原稿のなかでは、この石像のある場所をあえて書きませんでした。
あるいは、ネットで検索すればすぐに見つかるかもしれません。
でも、そっとしておいて欲しいのです。
決して荒らさないでください。
それこそが、この仲の良かった夫婦天皇に対する、最大のお弔いであると思うのです。
山内 桂 (木曜日, 14 5月 2015 00:50)
この岩屋は地元の人が江戸後期?に造ったものだそうです。とはいえ、言い伝えや霊的な閃きなどがあってのことだろうし、またそれまでにナニカの痕跡はあったのでしょう。
今は数軒しかない地元で行われる「神輿を先導する獅子舞」は、景行天皇の道案内をした地元民の行程と出来事を伝えているらしく、そんな記憶が伝わりながらお祀りしている神様が不明なことが、重大なことを隠しているようにも思えます。
管理人 (木曜日, 14 5月 2015 06:35)
山内 桂様
管理人です。私もその件については知っていました。
「嘉永六五年」という文字が、石像の右側に大きく刻まれているのですが、
結論からいえば「落書き」だと思います。
これを「嘉永65年」と読めば、そんな年は存在しませんし、(私にはそう読めました)
「嘉永六年癸丑」と無理に読めば、癸の文字が省略されており、表示の順序も違います。
いかにも目立つ部分に大きく書かれていることから、ますます怪しいとにらんでいます。
つまり、誰かが、あとから粉飾工作したものと考えられます。
エジプトのクフ王のピラミッドでも、“クフ”という落書きのため、真相究明が大混乱しています。
また、景行天皇は地元にとっては「侵略者」ですから、
地元民が道案内することは絶対にあり得ません。
「重大なことを隠している」・・・その通りですよね。
このあたりの住民が、皆殺しにされたことは、遺跡が物語っています。
「日本書紀」では、城原は景行天皇が苦戦して一時撤退して占いを行なった場所だと書かれています。
つまり、城原の都が先に陥落して、菅生の都は最後まで落ちなかったようです。
「神輿を先導する獅子舞」は、三宅にも残っており、私の地元の飛田川にもあります。
これは多分天孫降臨を表しています。
つまり天孫が降り立ったのはこの地だというアピールです。
そこに、あとから、ときの権力者が乗っかってきた可能性大です。
現在このことを調査していますので、そのうち記事にします。お楽しみに・・・・
山内 桂 (土曜日, 16 5月 2015 01:18)
ご返答ありがとうございます。
なるほど、、、。それにしても地区の人たちはなんの伝承も記憶もないのに、ただただ残された形を守り伝え、道の補強や草刈りをして岩屋で酒を呑み交わしてきたのを見聞きして、ただただ頭が下がり、伝えるとはこういうことなのかと感じ入りました。