前回は、神武天皇が滅ぼしたハズのナガスネヒコ一族が、津軽に逃げて現地のアラハバキ族と合流して、逆襲してきたというお話をしました。
まだ読んでいない人は、こちらから予習しておいてください。
そこで今回は、このナガスネヒコ=アラハバキ=新羅連合が、その後どうなったのか?
誰が大和王朝を創ったのか?
を、詳しく検証してみます。
結論を先に書きますが、もうひとつ別の勢力の存在を認めざるを得なくなりました。
その第三勢力とは、崇神天皇を中心とする一族である可能性が高まってきたのです。
それでは、長いストーリーになりますので、数回の連載に分けて、まず最初に日向族が奈良に遷都した直後から検証してゆきます。
ウエツフミは綏靖天皇の途中までで絶筆
神武天皇が、豊の国から奈良の橿原に遷都して、最初の大宮を築いたのが、
「畝傍山の東南の隅なる橿原」と書かれていますので、
畝傍橿原宮跡とされる橿原神宮の場所であることは、通説どおりで間違いありません。
また、「鳥見山の上津榛原の小野」とも書かれています。M41-1
最初は掘っ立て小屋で、周辺に移り住んできた民間人の屋敷よりも貧しくて見劣りがしたため、大工や木こりたちが集まってきて、「私たちが新殿を建てましょう!」と提案しますが、「今建てればナガスネヒコの祟りがあるから・・・・」と、これを断ります。
つまり、ナガスネヒコが築いた都の上に遷都してきたことが、この記述から分ります。
⇒ちなみに、ナガスネヒコの本拠地は宇陀市だが、当時の豪族は山間部の本拠地と、平野部の都市の両方を持っていて、侵略者との戦になると山間部に篭ったと考えられる。
そして、神武天皇の行なった施策や逸話が、記紀よりもはるかに詳しく書かれていますが、その内容は次回に譲ります。
ところが、ウエツフミには、神武天皇が亡くなった時期も、第二代・綏靖天皇が即位した経緯も、一切書かれていません。
カムヌナガワが生まれたときに、「後にこの人が74代ウガヤフキアエズ天皇になる人だ」と、その即位名までハッキリと書いていますので、即位したことは紛れも無い事実なのですが、その経緯を記録に残す余裕も無かったようで、突然にパッタリと記述が終了します。
つまり、第74代が即位した直後に、何物かによりウガヤフキアエズ王朝は滅ぼされたと、断定することができます。
ということは、第三代・安寧天皇とは、血が繋がっていない可能性が高いのです。
第二代・綏靖天皇は実在した!
第二代・綏靖(すいぜい)天皇ですが、記紀ともに神八井耳の命と書かれていますが、その記述内容が乏しいため、学会では実在しなかった天皇【欠史八代】とする立場が有力です。
ウエツフミではやや異なっているものの、さらに詳しい記述が残っています。
つまり、実在していた可能性が高いのです。
ウエツフミによると、神武天皇の皇后・イスケヨリ姫が生んだ兄弟は三人で、異母兄弟が二人あると書かれています。
◆長男である綏靖天皇の正式な幼名は「カムヌナガワの命」
・・・・・なぜなら、産屋を建てる木材が、臼杵川の川上のヌナ川から流れてきたからだ、としている。つまり、歴代の天皇と同様に、大分県臼杵市で生れている。
◆次男・・・・ヒコヤイミミは、橿原の小野に皇祖神を祀る神社を建てたので、これを斎き祭る神職として鳥見山に住んだ。つまり宮殿内にあった神社の神主となった。
◆三男・・・・カムヤイミミは、本人が「薬師となって西の人民を助けたい」というので、阿蘇に派遣。また奈良に遷都した後は、神武天皇の代理として豊の国を治めた。
つまり、奈良と大分の両方に拠点があったことが分かる。
異母兄弟は、阿蘇のアビラヌ姫に生ませた子で、
◆タギシミミ・・・・のちに反乱を起こすことで有名だが、本人が「薬師となって東の人民を助けたい」というので、陸奥の国の地方長官としてククダ山(福島県菊多郡?)の大宮に派遣した。
⇒つまり「薬師」というタテマエになっているが、実は反乱を起こしそうな危険地帯に実子を配置したとみることもできる。
⇒ここで、アラハバキ族とつながってくるが、詳しくは後ほど。
◆キスミミ・・・・タギシミミの弟だが、ほとんど記載なし。
タギシミミの異常行動は、何を意味するのか?
さてさて、ウガヤ王朝末期に起こったもうひとつの事件、
それは異母兄弟・タギシミミの怪しい動きです。
記紀ではこれを「タギシミミの反乱」としていますが、
ウエツフミの記述によると、反乱を起こしたとまでは言えません。
つまり、要約すると・・・・
◆陸奥の国に派遣されていたはずのタギシミミでしたが、親兄弟たちがナガスネヒコ征伐に出兵している最中に、突然、豊の国の「直入の宮」に帰郷します。
◆驚く一族を前に、その帰国の理由を聞かれても何の説明もありません。
◆母親のアビラヌ姫が、髪と手の指だけを残して不審死していることを告げても、何の反応もありません。
⇒のちにタギシミミ自身が食い殺したことが分ります。
⇒これが綏靖天皇の「食肉伝説」として伝わっていますが、とんでもない濡れ衣です。
◆しかも、こともあろうか、父親の神武天皇の皇后に夜這いをかけて、夜な夜な淫乱にふけっていたので、皇后は涙ながら歌にして、一族にそのことを知らせます。
◆そこで兄弟たちは相談して、「これは化け物が取り憑いているに違いない」と、タギシミミを討つことに決めます。
◆タギシミミが寝ている最中に三男のカムヤイミミが弓矢で胸を射ると、怒って逆襲して来たので全員で切りつけると、家を蹴破って逃げてゆきます。
(次男のヒコヤイミミも射たが、手が震えて外れた)
◆その血痕をたどってゆくと、阿蘇の益城郡の洞穴に雄牛ぐらいもある大猫の化け物が隠れていました。
「多分猫が年を取ると人食いの化け物=猫又になる」という言い伝えがあるので、そのことだろうと、綏靖天皇が怒って大地を蹴飛ばすと、その洞穴ごと崩れて火を噴く山となったので、「ここを根子岳(猫岳)という」と書かれています。
ちょっと長くなりましたが、ここに3つのヒントが隠されています。
(1)タギシミミの母親は、阿蘇から嫁いでいることです。ここには熊襲がいました。
つまり神武天皇は、熊襲族との和睦のため、政略結婚をしていたのです。
しかもそれは「阿多氏(阿多隼人)の娘」だとハッキリ書かれています。
この熊襲とは、津軽で繁栄したアラハバキの一族=蝦夷とは同属であり、ともに縄文人である可能性が高いのです。
その証拠として、アラハバキ族の中心勢力は「阿蘇辺王」であり、阿蘇という言葉はここから発祥していると『東日流外三郡誌』は伝えています。
つまり、タギシミミの体のなかには、熊襲=縄文人の血筋が色濃く流れていたのです。
(2)タギシミミが自分から望んで陸奥に派遣されていることです。
ここ(黒川とある)には「津保化族」という別の蝦夷が住んでいました。
彼らは海洋民族であり、阿蘇の熊襲が陸奥に渡って津保化王となった、(またはその逆の)可能性が高いのです。
これは、考えすぎかもしれませんが、この土地で何らかの暗示=マインドコントロールをかけられたか、あるいは自分の血筋について認識を新たにした可能性があります。
(3)最後にもっとも重要なポイントですが、タギシミミは死んでいないということです。
親族が起こした不祥事ですから、「猫又が取り憑いて根子岳になった」と、あえて神話的にぼやかしていますが、そのまま放免された可能性もあります。
さらに、「ナガスネヒコ征伐」にもタギシミミはあえて参加していませんので、のちにナガスネヒコ一族と連合して逆襲してきた可能性は大いにあります。
あるいは、単独で本当の意味の「反乱」を、これから起こすことも考えられます。
上記のウエツフミの記述を読んだだけでは、とても「反乱」とは呼べませんよねえ。
反乱を支援するテロリストの存在
さらに、私の以上の推測を裏付ける重要な記述が、この逸話の別伝にあります。
(ウエツフミが矛盾する二つの記述を残すのは、極めて異例なことです。私は、意図的に真実を暗示したものと考えます)
◆(前の記述とは全く異なり)母の死を聞いて悲しみのあまり引きこもってしまったタギシミミでしたが、ある夜、母親のアビラヌ姫が、大猫に食い殺されようとしているので、慌てて刀を抜いてこれを追い払うと、母は息子にこんな話をします。
「私の祖先は、陸奥の国のアダタ山(安達太良山)に居ます。だから私をその山に斎き祀れば、汝に幸いを授けるので、この国の人たちを助けよ!」と、ここで夢から覚めます。
そこで母を仮に阿蘇に祀って拝み、父が呼んでも出廷しないタギシミミでしたが、母はこう告げます(あれ、死んでなかったの?)「明日の朝、出廷すれば良いことがあります」
◆すると翌日、母が那須山に案内して、(祖先である)大きな神と小さな神に紹介され、健康長寿の方法と本草の秘伝を伝授されます。
問題は、毒薬の作り方まで伝授されて、
「平穏な世の中にはするな!それは天の罪である。しかし将来、外国人が攻めてきて荒らすなら、これで殺し尽くせ!」と告げられるのです。
まるで、反乱を教唆されているかのようではありませんか!
しかも、その方法が、ナガスネヒコと一緒に戦った新羅人たちも用いていた“毒煙”であるとは・・・・
どうやら、この記述と、タギシミミが自ら望んで陸奥に赴任したこととは、関係がありそうです。
しかも“薬師として”と言っています。
「国の国辺を助けなせ」という原文を、私は「陸奥の国の住民を助けよ!」と理解したのですが、これに間違いなければ、「陸奥の人民を率いて反乱を起こせ!」ということになりませんか?
しかも、その兵法まで伝授する“謎のテロリスト集団”が存在していたのです。
この集団が、一度はナガスネヒコを支援しましたが失敗、今度はタギシミミを支援しようとしているのです!
ちなみに、以上の説話について、ウエツフミは珍しく引用文献を書いています。
すなわち、「高千穂記」「出雲記」「常陸記」「越記」であり、逆に記紀はこの原典を全く無視しているようで、意図的に分りにくくしているとしか思えません。
今は原典が残っていないので、水掛け論となりますが・・・・
【その1】のまとめ
以上をもういちど要約しますと、
神武天皇の長男のカムヌナガワの命は、日向族の末裔であり、遷都した奈良で即位して、のちに「綏靖天皇」と呼ばれるようになったことは、ご理解いただけましたか?
そして、異母兄弟のタギシミミに反乱を起こす気配があったことだけは記録されていますが、その途中でウエツフミの記述は途切れます。
さらに、その弟のヒコヤイミミは、橿原に皇祖神を祀った重要人物であることになります。
だから、豊後から発祥している大神(おおが)氏一族がヒコヤイミミに呼ばれて奈良に渡り、大神(おおみわ)氏になったと、私は主張しているのです。
ただし、その付近にナガスネヒコ一族が祭った別の神社があるハズです。
ちなみに『万葉集』には、中大兄皇子の作として、下記の歌があります。
「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき
神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき」
これは、恋愛関係に例えた、実は権力争いのことであり、
「天の香具山を信仰する勢力が、畝傍山=日向族の跡目をめぐって、耳成山の勢力と相争った。」
「私の時代になってからも、この三部族の争いが続いている」
と解釈できます。
詳しくはのちほど。
さてさて、それでは神武天皇は、奈良ではどのような施政を行なったのでしょうか?
これについても、ウエツフミは詳しい記述を残しているので、次回は神武天皇の足跡をたどることとします。
ちょっとだけ予告しておきますと、「神武天皇と崇神天皇は全くの別人」です。
それでは、次回をお楽しみに・・・・
赤星憲一 (水曜日, 03 6月 2015)
今日、三重町駅に観光協会の案内所を作ろうとJR九州の営業の上村さんに打診しました。11日に会います。「古代史」ファンが、三重町駅へ押しかけることを夢見ています。さて、大野町で最大の格式の神社のあげつ(うえつ)神社というのもあります。
管理人 (木曜日, 04 6月 2015 07:58)
赤星様
コメント、どうもありがとうございました。
ぜひ観光の目玉にしてください。
今度、上津神社についても調べてみますが、『ウエツフミ』を守り伝えてきた人たちが、大野町に居たようなので、私も興味があります。
ウガヤ王朝を詳しくしりたい人 (日曜日, 11 10月 2015 20:37)
東日流外三郡誌に対して熱烈な信者さんがおりますが、2015年現在では
残念ながら昭和のゴットハンド和田氏のねつ造書としか言えないレベルの書物だと判明しています。この書物のおかげで東北地方の歴史が大変なことになってしまっています。
参考になさらないほうが良いと思います。
さらなる、うえつふみの研究、ウガヤ王朝の調査結果を楽しみにしております。