その謎の正体と、本当の目的とは?
「饒速日命」、正式名称を「天照国照彦火明櫛玉饒速日の命」といいます。
この神様に関しては、伝承や学説が大混乱しています。
私もかなり調べたのですが、その出身母体となる一族さえ特定できないのです。
しかも、みんなが「オラが村のニギハヤヒ様」を主張しています。
そして、さんざん悩んだ挙句にある結論に至りました。
つまり「ニギハヤヒは一人ではない!」ということです。
今日に至るまでファンの多い謎の神様、果たして何のために降臨したのか?
今回はその正体と、本当の目的に迫ります。
神武東征におけるニギハヤヒの不可解な動き
「神武東征」という古代史における一大事件、その前後にスポットを当てて、ニギハヤヒがどんな動きをしたかを追ってみます。
各地に伝わるバラバラの伝承や史実を、時系列順にひとつにまとめ上げると、意外なことに、ニギハヤヒの真の目的が明確になってきます。
ただし、全ての伝承や古文書が、全部正しいものと仮定します。
なぜなら、私の経験では「日本人は、勘違いすることはあるけれど、決して嘘はつかない!」からなのです。
そうすると、「ニギハヤヒは一人ではない!」という私の主張が明確になってきます。
まあ神様なのですから、「神出鬼没」は、当然といえば当然なのでしょうが・・・・
それでは、ニギハヤヒの動きを一緒に見てゆきましょう。
(1) 海幸彦・山幸彦以前の時代
最も古いニギハヤヒの降臨記録は、豊の国の臼杵の河内山であると『ウエツフミ』には書かれていますが、これは第70代ウガヤフキアエズの命の御世に長老・中臣道柴が語った伝承であり、この記事には関係ないので、あまり詮索しないことにします。
ただし、このときに有名な『十種の神宝』を伝えていますが、それはお宝ではなく、おまじないの呪文だったのです。
ウエツフミの原文は、こちら。
(2) 鳥海山に降臨して、蝦夷たちをまとめる。
これは、秋田県の唐松神社から出てきた、『物部文書』に書かれた伝承です。
http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/29309956.html
ニギハヤヒは「豊葦原中ツ国、千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山の山上、潮の処に降臨した。」といいます。
この鳥見山とは出羽国の鳥海山でした。
そして、東北の勢力をまとめたニギハヤヒは、大和を目指して南下します。
この南下した勢力とは、
◆ナガスネヒコの甥とされているウマシマテの命のこと。
(この解釈が一番有力ですが、特定できません。下記参照)
◆ナガスネヒコと一緒に戦った磯城氏、ウガシ氏などの一族。
◆『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)に書かれた、さらに北の十三湖あたりに繁栄した、阿蘇辺王という蝦夷の一族。
などが考えられますが、下記のとおりナガスネヒコではありません。
いずれにせよ、ニギハヤヒは、まず東北に降臨しているのです。
(3) ナガスネヒコの妹と結婚して、ナガスネヒコ一族と同盟を結ぶ。
これは、『古事記』『日本書紀』『ウエツフミ』の全てが一致する史実です。
ニギハヤヒは神様なので、本人が結婚したとは考えにくいので、上記(2)のニギハヤヒを担ぐ東北勢力とナガスネヒコの一族が、婚姻関係を通じて和睦したと考えるほうが現実的です。
問題は、ナガスネヒコ自身が、直接ニギハヤヒの子孫であるかどうかですが、下記の文献がこれを否定しています。
◆『ウエツフミ』によると、ニギハヤヒのご神宝を盗んで子孫になりすました悪人とされています。
ナガスネヒコと最初に対決した五瀬の命も「本当にニギハヤヒの子孫なら神宝を見せろ」と言ったのですが、ナガスネヒコの提出したご神宝の弓矢が長男の長脛太郎を射抜いたため、ニセモノと判断して開戦しています。
◆『富家文書』(ナガスネヒコの子孫に伝わる古文書)では、ナガスネヒコ一族とはもともとクナト神♂とアラハバキ神♀を祀る蝦夷族で、出雲に漂着した徐福の子孫だと伝えています。
◆『東日流外三郡誌』でも、ナガスネヒコは自分たちと同属の蝦夷なので、敗戦後その兄「安日彦王」を東北にかくまったと伝えています。
つまり、「ナガスネヒコ=ニギハヤヒ子孫説」を唱えているのは、『古事記』と『日本書紀』だけなのですが、その記述を詳細に読むと支離滅裂で、捏造された可能性が高いのです。
◆『日本書紀』では、ナガスネヒコはニギハヤヒから殺されていますが、なぜニギハヤヒが突然に態度を翻して、自分の子孫を殺害したのかの理由が全く不明です。しかも神様なのに突然降臨して参戦しています。
◆『古事記』では、「殺された」という記述はどこにも無く、なんとなくニギハヤヒが仲裁したような曖昧な文面になっています。仲裁されたナガスネヒコがどうなったのか?も全く書かれていません。
つまり、その後ナガスネヒコの一族が逆襲して、ウガヤフキアエズ王朝を滅ぼしたため、わざと曖昧にしたと考えられます。(記紀の作者は縄文人が政権を握ったことを認めたくなかったのでは?)詳しくは、こちら。
さらに、ナガスネヒコの出身地については、『富家文書』では出雲、『ウエツフミ』ではわざわざ「伊勢の度会文に書かれている」ことを明記して「越の亘理」※1だと伝えていますので、いずれにせよこの勢力も、大和を目指してやってきた“よそもの”に間違いありません。
※1 鳥取県の境港に渡町の地名あり。古代は弓ケ浜の砂嘴をワタリと呼んだのでは?そう解釈すると徐福伝説と一致する。
そして、自分の妹と結婚したニギハヤヒの勢力と和睦を結び、大和の地で平和裏に繁栄していたと推測されます。
※なお、このころ奈良県の建(タケル)は、頚城出身のククキワカタケの命であったが、ナガスネヒコに毒殺されている。原文はこちら。
※このあと、ニギハヤヒは関東に降臨して、印旛沼などを開拓したという説あり。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/kaitaku_tougoku.htm
⇒【1世紀】M9クラスの南海トラフ超巨大地震の発生
これは史実ですが、紀元元年の前後に、西日本を中心に、わが国史上最大で最悪の地震が襲います。
wikipediaの記述は、こちら。
ウガヤフキアエズ王朝では、第69代の治世でしたが、この地震が原因で天候不順が相次ぎ穀物が収穫できなくなったことが記録されています。
そして、この大飢饉こそが神武東征の直接のきっかけとなるのです。
(4) 豊の国で矢野姫に降臨して、神武天皇の父親の守り神となる。
ここで、ニギハヤヒは再び豊の国に降臨します。
第70代のお后である矢野姫が難産しているときに夢枕に立ち、「自分を斑鳩山に祀れば、この子(第71代)に幸福を授けよう」と告げます。
つまり、神武天皇の父親(第71代)の守り神となったのです。
詳しくは、こちら。
ウエツフミの原文は、こちら。
だからこそ、第71代の弟たち、つまり神武天皇の伯父さんたちは、分家してからニギハヤヒを祀ることになるのです。
すなはち、
◆次男の高倉下の命は、「尾張家の始祖」
◆三男の大久米の命は、「物部家の始祖」
となります。
なお、大久米の命は、別名ウマシウチであり、下記のウマシマテとは別人です。
さらに、高倉下の命も大久米の命も「ナガスネヒコとの戦い」では、大将として大活躍していますので、このときニギハヤヒは「天皇家に降臨して、神武東征を実現させるきっかけを作った」と解釈することができます。
つまり、ナガスネヒコと天皇家の両陣営にアプローチしていることになります。
なぜでしょうか?
⇒【2世紀】神武東征開始、ナガスネヒコとの戦いが勃発
(5) ウマシマテとして参戦、神武天皇の見方をする。
物部氏の先祖と(誤って)伝わっているウマシマテの命ですが、この人がよく分らない謎の人物なのです。
記紀によると、ウマシマデまたはウマシマジとも書かれており、変な漢字が宛てられていることもあって、後代の人たちが上記のウマシウチ(大久米の命)と混同した可能性は大いにあり得ます。
ただし、ウマシマテがニギハヤヒの直接の子孫であることはウエツフミも認めています。
『ウエツフミ』によると、
◆本人は、「自分こそニギハヤヒの本物の子孫で、ご神剣を持っていたが、その剣をナガスネヒコに奪われたうえ、自分も殺されかけたので、ナガスネヒコは狂っている」と、神武天皇の味方に着いた理由を説明しています。
◆さらにその登場の仕方が不可解で、貧しい格好をして、肩に鍬をかついで、どこからともなくフラリと現れて「神武天皇に会いたい」と直接談判して味方に着きます。
つまり、一匹狼の助っ人といおうか、はっきりいえば不審人物なのですが、神武天皇はこの人物を厚く信頼して、東征後は「奈良県の県知事(建=タケル)」に抜擢しています。
◆そして、ナガスネヒコを誅殺するとき、「甥の私に殺されるのはいやでしょうが・・・・」と言っています。
だからナガスネヒコは自殺しています。
ここで、なぜ自殺したのか不明ですが、伯父と甥の二人だけの会話でしたら、こっそりと自殺したことにして逃がしてやったという可能性も浮上してきます。
だから、『東日流外三郡誌』が伝えるように、その後ナガスネヒコは東北に逃げのびたということでしょうか?
◆上記(2)の東北勢力がもしウマシマテの同属であったなら、その記述がどこかにあるハズなのですが、ウエツフミの中には見当たりません。
◆しかも、神武天皇のウガヤフキアエズ王朝が滅んだあとは、またどこかにフラッと消えています。
その子孫たちの痕跡がないのです。
ここで、私の解釈ですが、このウマシマテとはニギハヤヒが降臨した別のお姿ではないでしょうか?
このことを裏付けるのは『古語拾遺』の記録で、「物部氏遠祖饒速目命は虜を殺し衆を帥し、官軍に歸順す。」と書かれていますので、明らかにウマシマテとニギハヤヒを同一人物としています。
神様であったからこそ、シッポをつかまれないように、わざと分りにくくして、一見意味不明な動き方をしているのです。
その理由は最後に書きます。
⇒【2世紀】神武天皇、豊の国から橿原の宮へ遷都
(6) 磐船山に再降臨して、神武天皇に科学技術を授ける。
さてさて今度は、大げさにお供の神々たちを引き連れて、ニギハヤヒが磐船山に降臨します。
このときは、『先代旧事本紀』によると数十人の大軍団で、『ウエツフミ』によると9柱の神々とともに、正面から堂々と「天の磐船」に乗って飛来します。
その目的は、神武天皇が橿原の宮に落ち着いたので、科学技術を伝授して、その発展を支援することにあったようです。
神武天皇は、お神酒をたしなんでから、ニギハヤヒと直接面談し、下記を授けられています。
◆水力推進プロペラ船の建造技術
なんと水力で水車を回す船の建造を提案しているのです。舳先から取水して船体中央の水車を回して動力源とし、これに人力と帆を組み合わせて、一漕ぎすれば百里走ると書かれていますので、フリーエネルギー=永久運動モーターを連想させます。
最近になってやっと、海水を取水しながらターボを回す船(ウォータージェット推進)が具体化されていますが、こちらのほうは別にエンジンが必要なので、2000年前のアイデアのほうが優れており、もしも本当に動くならばまさに驚異的です。
◆水源があるかどうか調べる方法
田んぼに特殊な布を設置して、水が足りているかどうかを試験する方法を伝えています。
◆たき火による揚水技術
水の少ない地域では、深く掘った井戸の上でたき火をして、水を吸い上げる方法を提案しています。つまり上昇気流により井戸内を真空にするという理にかなった方法です。
しかしどれを見ても、とても人間業ではないような、最先端の科学技術を伝えているのです。
それは、神話の世界の空想話しでもなく、どこか先進文明で既に実用化されているノウハウを伝えたとしか思えません。
なお、このときに最初の(2)の『物部文書』にも伝わるように、「饒速日命は畿内だけではなく自ら平定した東国をも神武天皇に献上した」とありますので、東北の地も支配下に入っており、実際に建(タケル)と呼ばれる地方長官が置かれています。
詳しくは、こちら。
⇒【2世紀後半】倭国大乱、ウガヤフキアエズ王朝の滅亡
(7) その後、行方不明となる?
この直後に、ウガヤフキアエズ王朝は滅亡したようで、『ウエツフミ』の記録はここで途絶えます。
私は、ナガスネヒコの一族が逆襲してきたのではないかと考えていますが、詳しくは、こちら。
あるいはこのあと、ニギハヤヒは邪馬台国に降臨したのかもしれませんが、その記録はどこにも残っていません。
⇒【3世紀】崇神天皇即位、大和王朝誕生
ご存知のように、崇人天皇は大物主の神を祀っていますので、このあとニギハヤヒはその姿を潜めます。
そして、古墳時代の到来とともに、弥生時代も終焉を迎えるのです。
ニギハヤヒが降臨した本当の目的とは
いかがでしょうか?
あちこちに降臨して、いろんな勢力の味方をしては、またどこかに消えている。
私の主張しているように「ニギハヤヒは一人ではなく」、「神出鬼没」であったということは、ご理解いただけたでしょうか?
では、その目的とは、一体何だったのでしょうか?
そう、もうおわかりですよねえ。
つまり、ニギハヤヒは「日本国を統一する」ために、極秘裏に暗躍していたのです。
もっと分りやすくいえば、「九州勢力」「近畿勢力」「東北勢力」を、ひとつの国家として結集させた、天才フィクサーであったということです。
それは、人間などのなせる業ではなく、ましてや渡来人などには絶対に不可能な大事業を成し遂げているのです。
しかも誰にも気づかれないように。
そして、それまで少数部族に分裂して争っていた日本民族がひとつに集約され、「日本国」という新しい中央集権体制が確立されたのです。
ニギハヤヒの、ひとつひとつの不可解な動きに、人間たちが右往左往しているうちに、いつのまにか日本国がひとつにまとまっていたということになりませんか?
これを「神の計画」と呼べば、一部の宗教関係の方たちが大喜びしそうですが、まさにそうだとしか思えないのです。
だからこそ、ニギハヤヒの命は、「日本建国の祖」と呼ばれてもおかしくないのです!
最後に残る疑問は、ニギハヤヒが、いったいどこからやってきたのか?という点です。
ここは、個人の判断にお任せします。
しかも、ご本人自身が、その痕跡を消していますので。
※なお、これ以外にも、ニギハヤヒにまつわる伝承や記録をお持ちの方は、下記から自由に書き込んでください。
よろしくお願いします。
ゴッチやん (火曜日, 23 6月 2015 12:26)
http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=124
管理人 (火曜日, 23 6月 2015 21:42)
上記の投稿URLを拝見しました。
つまり、「饒速日命の主な役割は、祭祀であった。だからイスラエルのレビ人であり、阿刀氏(空海の母親)の祖先である。」という趣旨だと思います。
『古語拾遺』は、この説を全く否定しています。
まず、饒速日命の主な役割は「矛盾を造備」することであり、武器の製造と整備でした。
「饒速日命は内物部を帥ひて矛盾を造備し、其の物は既に備はる。」とあります。
物部氏とは「もののふのべのたみ」のことであり、軍人集団を指す一般名称です。
次に、祭祀の担当は、「中臣氏」と「齋部氏」でした。
ことに齋部氏は、神物を収蔵する「齋蔵」の管理を任されたとあります。
このことを裏づけるように、『ウエツフミ』でも、橿原の宮の新築祝いの神事の際には、中臣氏一族が祝詞を上げ、齋部氏一族が幣を捧げたとあります。
この『古語拾遺』の記述の信憑性が高いのは、齋部氏の子孫が書いているからです。
ただし、その後「中臣氏ひとりが大きな権力を振るうようになった。」と不満を述べていますが・・・・・
つまり、饒速日命が祭祀を主管したという記録はありません。
ただし、これは神武天皇の時代のお話しであり、その後イスラエル人が入り込んできた可能性はありますが、饒速日命と関連づけるには無理がありそうです。