与那国島付近にあった「邪馬台国」は
紀元0年ごろ発生した「南海トラフ大地震 M9以上」により、
プレートごと海底に沈んだ!
だから倭人たちは、難民となって九州・佐賀に漂着した!
紀元0年に発生した、わが国観測史上最大で最悪の地震
東日本大震災の発生から、地震考古学の研究がさかんになってきた。
そして、様々な場所から堆積物を掘り起こして調査しているうちに、一番下からとんでもない物が出てきたのだ!
それは厚さ50cmにおよぶ砂礫の堆積物で、時期は今から2000年前のちょうど紀元0年の前後。
これだけの砂礫を運んだ津波は、高さ100mに達してもおかしくないと学者たちは震え上がった。
しかし、国民をパニックに陥れる可能性があると判断されたためか、この事実はあまり公表されていない。
海底に沈んだ邪馬台国=倭人の国
この地震により、「与那国大陸」がプレートごと海底に沈んだ。
例えば、こちらのサイト。
http://www.neo-tech-lab.co.uk/LostLand2.htm
そして、この島にあった邪馬台国が、「与那国海底遺跡」となったのである。
下記のサイトに、海底から発見された遺跡が紹介されているが、果たしてこれが人工物ではないと、誰が否定できるだろうか?
http://matome.naver.jp/odai/2133751340913855001
http://matome.naver.jp/odai/2137777838169885001
http://matome.naver.jp/odai/2143562347454611801
その記録が、わが国の文献にも中国の文献にも存在しないのは、上空からそれを確認する技術が無かったからだ。
ただし、「この地震により(どこかの)島が崩れた」という記録は、ウエツフミにある。
神武天皇の父・第71代の時代だというから、まさに「神武東征」の直前である。
http://www.coara.or.jp/~fukura/uetufumidata/uetudata.php?tno=36&sno=14
『魏志倭人伝』の記述は100%正確だった
<倭人たちのいた与那国島>
だから、『魏志倭人伝』の記述は100%正確だったのだ。
「倭人は帯方郡の東南の大海の中に在った」のだ。
間違いなく。
ただし、「昔は・・・」という条件付きである。
中国語に過去形が存在しないことが混乱の原因である。
沖縄ではなく、もっと西側だ。
そこに倭人たちの住む「邪馬台国」があった。
多分沖縄から先は、浅い干潟のような地形が延々と続いていたので、大型船が近づけずに「陸行一ヶ月」となってしまったのだ。
<女王の造った新しい国>
その後、倭人たちは漂着民となって全国各地に押し寄せるが、その最大の本拠地が「佐賀県」であった。
だから「(今は)女王の(造った新しい)国の南に、狗奴国(熊本)がある」ということであり、多分、福岡県の糸島半島~佐賀県付近で間違いないだろう。
『魏志倭人伝』では、「倭人」の居た場所と、「女王国」のある場所が、書き分けられていることに注目。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
神武東征もこの影響で始まった
この大地震の影響で、住む場所を失った倭人たちが大量に九州に押し寄せてきた。
ときおりしも異常気象(寒冷化)で、大飢饉のまっ最中であった九州は、大量の難民により危機的な食糧不足に陥る。
これが原因で、先住民の「日向族」が、東を目指し近畿地方に移住し始める。
これを後代の人たちは「神武東征」と呼んだ。
全国各地に拠点を置いた倭人たち
九州だけではない、ウエツフミなどから推定すると、倭人たちはどうやら下記の4ヶ所に分かれて入植したらしいのだ。
(1)佐賀県~福岡県糸島半島付近・・・・ここに女王が新しい国家を建設する。それが「倭の奴国」である。
(2)千葉県房総半島付近・・・・千葉県の香取神宮や、茨城県の鹿島神宮を造った一団があった。ここから藤原氏などが発祥した可能性が高い。
(3)長野県諏訪湖付近・・・・・諏訪神社のある場所だが、ウガヤフキアエズ王朝がここに「難民受け入れセンター」を造った可能性が高い。これが安曇氏の祖先である。
(4)福井県敦賀~角鹿付近・・・・気比神社のあった場所で、神功皇后や武内宿禰はしばしばここに立ち寄って「情報交換」が行なわれていた。そして、ここから海部氏などが発祥する。
上記の4ヶ所に共通するものとは何か?
そう、神社に祀られたご祀神である。
ひとことでいえば「海洋神信仰」ということでまとめられる。
つまり、藤原氏も邪馬台国の末裔である可能性が高いが、現在調査中。
ところが、この大惨事に便乗して「それはオレ達のことだ!」と言い出したのが、シュメール人やユダヤ人たちだったのだ。
そんなことは無いだろう。顔を見りゃ分るよ!
日本人じゃないことは・・・・
まさに「火事場泥棒」的な理論だが、これが彼らの生き残る唯一の方法だったのだ。
邪馬台国の末裔がヤマトに攻め登る
そして、近畿のナガスネヒコとの戦いで、急速に国力を落としていった日向族の「ウガヤフキアエズ王朝」は、北部九州一帯で勢力を急拡大してきた倭人の「邪馬台国」にとって代わられる。
だから、次は「邪馬台国」から出たヒロイン「神功皇后」が「神功東征」を行い、大和にあった勢力と激突したのだ。
このことは、以前に書いたので、こちらから。
◆邪馬台国は佐賀県にあった!そしてウガヤフキアエズ王朝のライバルだった。
川浪恒幹 (日曜日, 02 8月 2015 10:47)
ほかに大異は無いのですが、邪馬台国が佐賀県にあったということは、同じ佐賀県人の自分にとってたいへんに興味深いことになりますね⁉️
佐賀といえば、《吉野ヶ里遺跡》があります…。邪馬台国の所在地が九州説と大和説に二分されていますが、これで九州説、しかも佐賀県では❓ということであればいいなぁ〜☺️と期待してしまいます…。自慢する訳ではないのですが佐賀県はあまり天変地異の無い住みやすい環境にあります…。古代も現代の人達も同じよう自然災害の無い所に、ましてや地震・津波で居場所を無くしたなら・・・・・
自分がまだ生きてるうちに【邪馬台国】の研究・調査を推し進めていただいて、結果発表をお待ちしております…。