山王様はアジア最強の神様だった!

「山王様」というお名前は、どこかで聞いたことがあるはずですが、

「じゃあ、何の神様?」と聞かれても、ほとんどの人が答えられないと思います。

なぜでしょうか?

いろいろと調べてゆくうちに、この神様こそ「お釈迦様」の生まれ変わりであり、アジア最強の存在であり、しかも「物部氏の天敵」であることが分ってきました。


隠された山王様のルーツ

もともと比叡山には「山王様」が祀られていました。

だから、比叡山=日枝神社=日吉神社=山王権現=山王様=大山咋神(オオヤマクイの神)なのです。


ところが、応神天皇の時代に、この山王様を比叡山の頂から麓に下ろして、三輪山の大物主と入れ替えたのが、天台宗の始祖・最澄という中国からの帰化人でした。

最澄は、「大物主が大比叡であり、山王様は小比叡で、地主神である」と、おかしなことを言い始めました。

つまり大物主のほうが上位の存在だと言いたかったようです。


応神天皇は、宮中から天照大神を追い出したり、出雲からご神剣を奪ったりして、日本の古神道を破壊し、オオタタネコが新たに考案した「大物主=ニギハヤヒ神道」と入れ替えようとしましたよね。

そして、その子孫が「物部氏」なのです。


つまり、最澄と応神天皇はグルであったということです。

世間で言われているように、応神天皇が徐福の子孫であったとするならば、本国から仲間を呼び寄せて、仏教までも中国色に塗り替えようとしたということです。


当然、もともとの「山王様」を信奉する勢力からの反発があったハズです。

それが、「山王神道」と呼ばれる一派なのです。


「山王様とは、お釈迦様の生まれ変わりである!」と説いて、復活させようとしました。

これを「本地垂迹説」といいます。


当時は、神道が廃れはじめ、逆に仏教の大ブームが起こっていましたから、神様より仏様のほうが集客力があると考えたのかもしれません。

あるいは、物部氏の弾圧を恐れて、表向きを変えたと見るほうが現実的でしょうか?


さらに、この「天台宗」をベースに、より日本古来の神道に近い仏教思想が生まれました。

それが、法然の説いた「浄土宗」と親鸞の説いた「浄土真宗」だったのです。


「出家しなくていいんだよ」

つまり「肉食OK、妻帯OK、剃髪不要」

さらに「そんなにがんばって修行しなくていいんだよ」

「だだひたすら南無阿弥陀仏と唱えなさい」

そして「あの世に行ってから成仏しなさい」

と説きましたが、これは日本古来の神道に対する取り組み姿勢そのものであり、聖徳太子がかねがね力説していたことなのです。

聖徳太子は「インドの仏教は修行を重視しすぎて、人間の本質を無視しているので、日本人にはなじまない」と、考えていました。

だから、浄土真宗のお寺では、ご本尊・阿弥陀仏の向かって左側に聖徳太子の肖像画が掛けられています。


つまり、比叡山から発祥した「天台宗」「浄土宗」「浄土真宗」と、「山王信仰」は表裏一体なのです。



山王様とは一体誰なのか?

それでは、この山王様とは一体誰なのでしょうか?


◆大分県に伝わる「真名野長者伝説」に、その由来が書かれています。


古墳時代の577年に、豊の国を攻めた物部守屋に対して(ここでもまた物部氏が登場)、山王神が降臨してこれを撃退するのですが、このときに「天竺、唐土、日本の三国を守護している山王神とは我のことなり!」と告げています。

だから、真名野長者は臼杵石仏のある深田の地に「日吉神社」を据えて、厚く帰依しました。

つまり石仏と山王様は一体であるとして、同じ地に祀っているのです。

http://sence-net.com/manano.html#moriya


山王神とは、仏教が伝来する前から、インドや中国までをも広く統治した神様であり、初代・ウガヤフキアエズの命がアジアに君臨したという伝説にもつながります。

だからインド発祥の仏教との習合もスムースに進んだのでしょう。

というよりは、お釈迦様と山王様は、本当に同一人物であり、仏教は日本から発祥しているのかもしれませんが、ここから先は信仰の世界になるので、ノーコメント。


◆上記の伝説によると、その至現したお姿とは・・・・


真っ赤な身をした、一丈ばかりの化け物で、髪の毛は紅のようで四方に乱れ、顔は猿のよう。赤い衣を着て、眼は光り明玉のようで、手に火の玉を持って焼き払う。

とあります。

 

つまり赤い猿のようなお姿であったということです。

ここから猿が山王様の使いであるという信仰も生まれました。

さらに、そのお姿は、記紀に見える「猿田彦神」ともよく似ていますよねえ?

だから、山王神=猿田彦神だという説もありますが、現在研究中です。



◆中国にも「猿神伝説」があり、マニアの間で高額取引されることで有名な「赤猿」という切手にもなっています。

つまり、中国でも山王様が猿神として信仰されていたということで、それは下記のウィキペディアの記述からも明白です。


比叡山延暦寺の僧の著書とされる神道理論書『耀天記(ようてんき)』によれば、漢字の発明者とされる古代中国の伝説上の人物・蒼頡が神の出現前に、釈迦が日本の日吉に神として現れ、サルの形を借りて吉凶を示すと知り、「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことや、蒼頡は実は釈迦の前世であり、釈迦が日吉に祀られてまもなく、サルたちが日吉大社に集まったことが記述されている。


猿神とは https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E7%A5%9E


「神」という漢字は、「申が示す」という意味だというのですから、お猿様は大変な役目を与えられていることになります。

 

◆それどころか、猿神は、アジア各地にその痕跡を残しているのです。

例えば、インド神話やヒンドゥー教の聖典に登場する「ハヌマーン」は、いまでも民間信仰の対象であり、孫悟空のモデルであるという説もあります。

さらに、写真でも分るとおり、タイ、インドネシア、ネパールなどでも「猿神」は、その姿を変えて信仰され続けているのです。

 


◆一方、日本では、「山王神とは大山咋神(オオヤマクイノカミ)のことである」と説明されていますが、この神様は記紀にもほとんど登場しないマイナーな神様ですよね。

ここに物部氏や藤原氏による改ざんと隠蔽の歴史があるように見えるのですが、現在その証拠を収集しています。

 

下の写真は、左側が奈良県明日香村の猿石のうち「山王権現」とされるもの、右側が比叡山・横川の猿の霊石ですが、どうみても「大山咋神」という名前になじまない違和感を感じるのですが・・・・

 

私の直感では、ウガヤフキアエズの命、山幸彦、ニニギの命のうちの誰かは、きっと山王神の生まれ変わりであろうと思います。

つまり記紀からもほとんどその痕跡を消されている「日向三代」と呼ばれる人たちです。

特に初代・ウガヤフキアエズの命は、かつてアジア全域を支配した農業の神様ですから、最も可能性の高い有力候補です。

 

話はそれますが、

「古事記」を書いたのは新羅出身の物部氏

「日本書紀」を書いたのは百済出身の藤原氏

だと考えると、これらの記述に山王様が登場しない理由が見えてきます。

 

◆山王神が大物主と入れ替えられたように、大山祇神(オオヤマツミ=大山津見神)も、事代主神に入れ替えられて「三島神社」となっています。

まだその原型を残したままの元祖も混在していますが・・・・

これも、物部氏とその息のかかった平田篤胤の仕業ですよね。

 

◆さらに、日本に古来からあるもうひとつのグループ、つまり豊玉姫や綿津見神らの「海の神」系統が、「山の神」系統のトップに君臨する山王様と合体することにより、現在の皇室と日本国の基礎が出来たのではないか?と考えています。

この辺は長くなるので、また機会を改めますが・・・・。

奈良県明日香村の猿石のうち「山王権現」
奈良県明日香村の猿石のうち「山王権現」
比叡山・横川の猿の霊石
比叡山・横川の猿の霊石


山王様のその後の歴史への影響力

この「山王様」、いずれにせよ、物部氏一族からは異常に恐れられている、強大なパワーを持つ神様であることは、下記の歴史が証明しています。


◆鎌倉幕府を開いた源頼朝は、比叡山の反発にあって京都に都を構えることができなかったので、仕方なく(当時はまだ)辺境の地・鎌倉に遷都しました。

この鎌倉で禅宗を保護しましたが、三代で滅んでいます。

この辺の経緯は、栄西の「喫茶養生記」とも関係があり、中国発祥の臨済宗が比叡山から徹底的に弾圧されたので、栄西は鎌倉に逃げ、ときの将軍家と北條家に「喫茶習慣」という文化の伝道者として近づいていったのです。

つまり京都では禅宗は壊滅状態にあったということであり、もしかして、山王様が追い出したということ?


◆戦国時代に、比叡山を焼き討ちにして、一向宗徒(浄土真宗)の一揆を弾圧したことで有名なのが、物部氏出身の織田信長でしたが、彼も一代で滅んでいます。

またここでも物部氏 vs 山王神の対立構造が見えてきませんか?

しかも物部氏出身の織田信長が、大物主の君臨するハズの比叡山を攻めたというのですから、この時代には最澄の影響力も弱まっていたという証拠ですよね。

その後を継いだ豊臣秀吉が「猿」と呼ばれたのも、もしかして「猿神=山王様」の生まれ代わりということでしょうか?


◆江戸時代に、薩摩藩の島津氏は、「浄土真宗禁止令」を出して徹底的に弾圧したので、多くの人が磔(ハリツケ)獄門にされたようです。

だから彼らは地下に潜って「隠れ念仏」と「講」という秘密結社が誕生しました。

実際に、鹿児島県は浄土宗系の信徒が多いのですが、それもそのはず、ここは旧ウガヤフキアエズ王朝の一部だからです。特に、東の大隈半島は。

http://kokotomo.net/2013/05/1616

この地下勢力が「西南戦争」の原動力となり、西郷隆盛は、ただ担がれただけという説もありますが、調べてみると実際に蜂起して戦った民兵のなかには僧侶も多かったようです。

もちろん「廃仏毀釈」に対する反発も大きかったようですが、明治時代になってからも新たな「浄土宗系=山王神道」に対する弾圧があったので、山王様が怒って降臨したと見ることも出来ます。

ちょっと話はそれますが、熊本城で膠着状態となった薩軍は、なぜか突破口を求めて祖母山麓の竹田市や、宮崎県境の深い山中にまで進軍してきます。

私には、山王様の保護を求めた野村忍助が、聖地を求めて彷徨っていたようにしか思えないのですが・・・・


◆逆に、この比叡山を厚く保護したのが、徳川家康とそのご意見番の天海僧正でした。

だから徳川幕府は400年の長きにわたり繁栄していますよねえ。

天海僧正は、江戸幕府の守護神として赤坂日枝神社を配置し、山王祭りを行ないました。

また、最澄の「山王神=大物主」という解釈を改め、「山王一実神道」という新たな思想、つまり「山王神とは大日如来であり、天照大神である」と説きました。

というよりは本来の古神道である山王信仰に戻したとみることもできます。


◆そして大切なことですが、江戸幕府は「お寺を中心に人別帳を整備」させました。

つまり現在の市区町村の「戸籍係」という役割をお寺に与えたのです。

だから武士による藩主と、お寺による地域自治という二重統治構造、いわば「藩幕寺体制」が完成されたのです。


◆ところが、徳川家康は強大になりすぎた「本願寺」の勢力を恐れ、これを東西に二分割するという、一見矛盾した政策も行なっています。

実はこの事件、本願寺の勢力を横取りしようとした藤原一族の陰謀であり、その結果誕生したのが西本願寺=本願寺派(つまり貴族勢力養護派)、一方本来の皇室を擁護する立場を守り続けているのが西本願寺=大谷派であると、私の祖先から聞いていますが、真偽は定かではありません。

この説によると、私の祖先が下り藤の家紋を付けながら、大谷派の住職であることと矛盾しているからです。



まとめ

以上、早足で見てきましたが、「山王様」とは、日本の国家基盤とアジアの平和に重大な関わりを持つ強大な神様でありながらも、その実体がはっきりとせず、その時代時代によっていろんな解釈がされてきたことがお分かりでしょうか?


そして、いつの時代にあっても「物部氏」の最大の天敵でした。


あるときは「お釈迦様」と名を変えて信仰され続ける「山王様」。

多分、山王神社/日枝神社/日吉神社などの氏子衆と、天台宗/浄土宗/浄土真宗などの門徒衆を合計すると、そこに日本最大の宗教勢力が誕生すると思うのですが、普段は空気や水のように全く忘れ去られている、正に「有り難い」つまり望んでも手に入らない存在でもあります。


今度、お猿様を見かけたら、ぜひ「山王様」のことも思い出してください。

 


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