ウエツフミには、本当に驚かされることばかりが書かれているのですが、今回は「三韓征伐」に関する記述が出てきました。
しかも、神功皇后のときとは違って、こちらはかなり詳細に、生々しく書かれているのです。
私の推測が正しければ、第15代の治世は、紀元前8世紀~紀元前5世紀のあいだくらいですから、いろいろと矛盾する点も出てくるのですが、とりあえずその記述内容を見てみましょう。
第15代の本拠地は宮崎県の西都原古墳群だった
まず、下記の記述から、第15代・ウガヤフキアエズ天皇、幼少名・臼杵根彦の命が、
「宮崎の国の三宅の小浜」という場所に産屋を建てたことが分かります。
この地名こそ、西都原古墳群がある場所なのです。
※和名抄によると、日向国児湯郡三宅郷であり、現在の西都市三宅。なお小浜は市ノ瀬川の上流にあるらしい。(当時の産屋は必ず水のそばに建てられた)
そういえば、このあたりからは後の古墳時代とは様式の異なる「地下式横穴墓」が多く発見されています。
例えば、「鬼の窟古墳」(206号墳)
つまり、後代の「古墳時代(4世紀以降)」よりもはるかに古い史跡が並存している可能性が高いのですが、ぜひ専門家の方に検証をお願いしたいと思います。
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【ウエツフミ】宗像本第26綴第4章の現代語訳
第15代・ウガヤフキアエズ天皇(幼名は臼杵根彦の命)の時代に、皇后様の緒色幸玉姫の命が懐妊して臨月を迎えたので、宮崎の国の三宅の小浜に大宮を建てて、御輿入りしてイキみましたが、結局この御子は生まれませんでした。
産守の上・天懸戸櫛彦の命が、太占(フトマニ)で占うと、「其所然に良はず」というご神託がありました。
次に、臼杵の大浜と大分の黒浜を占うと「吉」と出ました。
そこで、臼杵の大浜に産屋を建てて生まれた御子が、産戸眞幸の命、のちの第16代・ウガヤフキアエズ天皇となります。
【原文は、こちら】
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つまり、第15代・臼杵根彦は西都原古墳群のあたりを本拠地としていた可能性が高いのですが、その後臼杵や大分に遷都したのかもしれません。(記述からは確認できず)
なお、当時の天皇は一ヶ所にずっと止まって居た訳ではなく、新たな天皇が即位するごとに大宮を移しています。
愛媛県の久万山町や熊本県の阿蘇や、大分県の国東半島や竹田市を本拠地とした天皇もいました。
なにしろ、ウガヤフキアエズ王朝が74代続いたとすれば、約1000年間の歴史ですから、あちこちに都が誕生するのは当然と言えば当然なので、この辺は柔軟に考えたほうがよいようです。
対馬に三韓国人が来襲
<以下はウエツフミの記述の現代語訳>
まず、第15代・臼杵根彦天皇の8年秋8月に、対馬に三韓国人(高麗、新羅、百済)が船で来襲して、現地人の民家を襲ったので、対馬の建(タケル=行政長官)の香山太刀雄熊の命が、現地人と一緒にこれを追い払います。
また翌年の秋、大船三隻に、戦の大将三人が乗って来襲したので、同様に撃退。
さらに、翌年夏6月には大船80隻ばかりに乗った多くの外国人が、帆を上げて対馬を取り囲みました。
そこで、タケルの香山太刀雄熊の命は、タシという国の国主であった秋田麿を使者に立てて、速船で大宮(おそらく西都原古墳群のある場所)に、かくかく云々と訴えさせました。
M26-5
稲飯(イナヒ)を将軍として皇軍が出兵
そこで、臼杵根彦天皇は、13人の重臣たち※を集めて、出陣を宣告します。
※この13人のなかには中臣氏、斎部氏、表春氏、下春氏、児屋氏、太玉氏、思兼氏などの名前がみえる。
稲飯の命(第12代天皇の孫)を「将軍」として、
事代穂俵の命と鳴海楯縫の命を「軍師」にし、
12人の上たちを「戦守(いくさいもり)の上」とし、
福岡や熊本の人間を率いて、軍艦に乗せ、その船ごとに布幕を張り、その印に旗と伊吹を立て並べ、法螺を吹き、銅鑼を打ち、鼓と金鼓を鳴らし、高音を上げて、軍人には軍服を鎧わして、金丸の笠を兜とし、勇み立って、帆を全開にして、対馬に到着しました。
M26-6
当時の兵法
驚くべきことに、ここでは当時の「兵法」が、こと細かに述べられています。
私には、これが誰か一人の偽作者による創作だとはとても思えないのですが・・・・
神から伝わった「兵法」の諭えとは、
◆外国人と戦うときは、「譲れよ、仰げよ、褒めよ、捕らえよ、与えよ、押せよ、殺せよ、活かせよ」の8つを基本とする。
◆鼓を打ったら進め
◆金鼓は退け
◆旗を真印(正しい合図)とせよ
◆八幡は、敵の勢いが劣勢になったことの合図
(八幡神の由来はここから来ている?)
◆幕は矢避けに張れ
◆楯は矢受けに立て
◆軍に進む人間は懲らしめよ(勇み足のことか?)
◆たゆむ人間は助けよ
◆外国人が弛んだのを見たら押せ
◆日本人一人が、外国人三人を相手にせよ
◆白兵戦で戦ったあとは、しばし憩え
◆この時に、鼓を合図に、新人に替えよ
◆ただし、軍師は休まず励め
◆日本人を一人も殺さずに行え
◆危うくなったら逃げよ
◆堅実ならば進め
◆外国人が逃げたら追いかけるな
◆やってきたら撃て
◆お神酒と食料は、間合いを見て与えよ(なんと飲酒しながら戦っていた)
◆しばらく戦ったら、しばらく休め
◆追い風ならば弓を放ち、向かい風ならば石を投げよ
と、箇条書きの教訓のようにして教えました。
最後に、この戦いは海戦なので「事は静かに、技は激しく!」と、結ばれています。
M26-7
いよいよ三韓国軍との海戦が始まる
三韓国人たちは80隻の船を並べて、日ごとに対馬を侵略していましたが、皇軍の船団がやってきたと聞いて、船からことごとく出てきて白兵戦となりました。
多くの外国人が撃たれたので、また自分たちの船に逃げ戻りました。
ここに、将軍の稲飯の命は、大分の佐賀関(速吸門)出身の江子のサマ四郎(えごのさまよろ)※と、その息子の四郎太郎、四郎二郎、四郎三郎、四郎四郎ら5人を率いて、
「今がチャンスだ。あの大船に大将が乗っているので、これを攻めよ!」というと、
この5人が素っ裸になり、武器を持って、船の舳先から真っ逆さまに飛び込みました。
人々が「助けろ」と騒ぎましたが、そうではないと分かると静まり、
しばらくすると、大将の乗る船の外国人たちが、逃げようとして小船に乗り移り始めました。
四郎一族が水に潜って船底を撃ち抜いたので、小船の船底は水浸しになり、残る外国人たちもみんな溺れて死んでしまいました。
これを見た外国人たちは恐れをなし、みんな帆を揚げて逃げ始めたので、皇軍はこれを追いかけました。
M26-8
※このくだり、椎根津彦=珍彦の故事と重なりますが、その検証は最後に・・・・
皇軍は加羅の阿羅港に上陸
そこで、軍師が言うには、
「今夜の東雲をみると、必ず東風が吹くはずだ。だからそれに乗って船を出したらよいだろう。」
さっそく帆を揚げると、夜半には加羅国(伽耶国)の阿羅の港に到着しました。
(原文は加那阿禮門となっている)
上陸していくつもの仮陣地を建てて、集合して高声・低声を放ち、銅鑼を打ち、法螺を吹き、幡を立て並べました。
M26-9
三韓国軍、大軍で反撃
ここに、三韓国の王主・サイテニキ(新羅王)は、天皇の大御国の戦の上たちが攻めてきたと聞いて、あわてて5万人の三韓人を5つに分けて、山沿いに隠れて弓を射たので、雨のように矢が降ってきました。
そこで、皇軍は半分の軍勢をアリナ川※の川辺に迂回させて、弓で反撃したので、外国人たちは隠れることもできず、崩れて逃げ始めました。
※原文は阿利那の大河辺
それを大軍で追いかけると、外国人たちは新羅の深山にまで逃げて隠れました。
だから皇軍はアリナ川を前にして、駐屯しました。
M26-10
加羅支那国から援軍が到着
ここに、加羅支那国※から三韓を救うため、千万の軍人がやってきて、新羅に駐屯しました。
※ウエツフミにはよく登場する国名だが、(1)中国という説と(2)楽浪郡または帯方郡という説がある。いずれにせよ当時は中国も統一国家ではなかった。
久久智高鞆の命※と雷橋掛の命が、このことを将軍に報告すると、お上たちは「これは容易な戦ではない」ということになり、軍隊を8つに分けて、加羅支那軍と高麗軍と百済軍にそれぞれ向かわせました。
※久久智氏は、西郷隆盛を出した熊本の菊池氏の祖先。
翌朝、雨の降りしきるなか、8ヶ所で一斉に開戦したので、皇軍側の犠牲者はわずかでしたが、外国人の犠牲者は山のようになりました。
M26-11
三韓人たちは降伏
ここに、外国人は怖気づいて進軍することができません。
皇軍はさらに追い詰めて、新羅の王主・サイテニキと、助けに来た加羅支那軍の使者・ヨナシムキの二人を生け捕りにし、縛って将軍の前に連れて来ました。
すると高麗の王主・トシウドと、百済の王主・マリトユリが、飛んで来て祈りました。
「今後は日の御国を侵略することはありませんし、祖国の本津大御国(宗主国)と斎き祀ります。この国の大将たちは、全員あなた様の美しい国の牧山の馬飼い、牛飼いの長となりましょう。だから捕虜になった二人を助けてください。」
だから、二人を逃がしてやり、無事に平定しました。
戦守の上たちは、凱旋帰国して報告しました。
M26-12
新羅の王主、一人娘と稲飯との婚姻を申し出る
ここに、高麗の王主、新羅の王主、百済の王主、加羅支那の使者の4人は、将軍の稲飯の命に同行して、色々な奉げ物を携えて(高千穂の)大宮に来朝しました。
新羅王のサイテニキが申すには、「私には一人娘がおりますが、良いご縁がありません。だから稲飯の命に差し上げますので、三韓の国を治めてください。」
M26-13
スサノオの神意により婚姻は破綻する
ここに、天皇や重臣たちは同意して、稲飯の命を王主の婿とするため、三人のお上を側近につけて、80人のお供の者を連れて、御輿に乗せて、熊本の山(阿蘇山のことと思われる)まできたところで、その山が鳴動して雷のように鳴り始めました。
側近の者たちが御輿を持ち上げて進みましたが、山が揺れ始め、並木が倒れ、岩が転がり、大地が裂けて、地震が起きました。
後ろを向けば地震は収まるので、仕方なく大宮に引き返しました。
そこで、天皇や重臣たちが太占(フトマニ)の占いをすると、スサノオの命が天上の御座に現れて、髪を振り乱して、顔を真っ赤にして怒り、
「天孫である稲飯の命を、外国人に渡して、御種を下すとはけしからん。だから止めたのだ!」と、告げました。
M26-14
稲飯のかわりに鈴木岩室を送る
そこで、天皇は重臣たちと相談して、鈴木岩室の命を稲飯の命の代理人として送りました。
天孫の大臣が新羅の国の王主の婿となったと聞きつけて、高麗、百済の王主が尋ねてきて、拝みながらこう申し上げました。
「私どもは、日の御孫御子の命が、天の下知ろしめす、豊道之原の霊熟きの千萬熟きの十足る瑞穂の大御国(日本国を称えてこう呼んだ)の牛飼人となりました。
天皇の重臣であるあなたが、この外国の卑しい国の王主に身を落としたことは、尊いことでございます。
だから今から後は、あなた様の家臣となって、長く仕えましょう。」
といい、奉げ物を多く奉納して、親戚の儀式を行いました。
M26-15
<ウエツフミの記述は以上>
時代考証と私的な考察
さてさて、以上の記述で気になるのが、これはいつ頃の時代の話か?ということでしょう。
◆冒頭にも書きましたが、第15代の治世は、紀元前8世紀~紀元前5世紀のあいだくらいだと、私は見ています。
※神武東征直前にあったという大地震(起源0年)と、ウエツフミに書かれた星の配置(紀元前800年頃)から、私が勝手に推測しました。つまり「弥生時代」と「ウガヤフキアエズ王朝」とは、完全にオーバーラップすると考えています。
◆「三韓」の国名から時代を推定すると
高麗(こま)=高句麗----紀元前1世紀~紀元7世紀
新羅----紀元4世紀~紀元10世紀
百済----紀元4世紀~紀元7世紀
加羅支那----紀元3世紀~紀元6世紀
三国時代--------紀元前1世紀~紀元7世紀
ということになり、第15代の治世と全く一致しません。
◆ただし、ウエツフミが大友能直により編纂されたのが1223年のことですから、鎌倉時代に韓国の歴史に関する研究が進んでいたとは思えませんので、「今(鎌倉時代)でいうところの新羅国」という意味で「新羅」と記述された可能性が非常に高いのです。
◆つまり、国名から時代を特定するのは危険だということです。
◆さらに、江戸時代末期になって民家から発見された写本(宗像本と大友本)について、バラバラの状態で出てきたので、「その順序が分からずに悩んだ」と、吉良義風氏が書いています。詳細は、こちら。
つまり、現在のウエツフミのページ構成は間違っている可能性があるということです。
神武東征の記述との類似性
さらに、現代語訳作業を行っているうちに、大きな3つの類似点に気付きました。
(1)稲飯の命(イナヒ)
この方は、第73代ヒダカサヌ(神武天皇)の時代にも、兄として登場し、末弟の三毛入野の命(ミケヌイリヌ)とともに、神武東征時に新羅軍を破った大英雄として活躍しているのです。ただし、このときは戦死していますが・・・・詳細は、こちら。
つまり、500年後に再び同じ名前が登場して、似たような大活躍をしたということです。
そして、韓国側から見れば「憎き怨念の人物」となりますので、その後の歴史からはキレイに抹消されています。
(2)江子のサマ四郎(えごのさまよろ)と、4人の子供たち
根拠は無いのですが「大分の速吸門出身の海人」ということでピンときましたが、これは神武東征時の、椎根津彦=珍彦のことではないでしょうか?
ちなみに、ウエツフミでは椎根津彦には子供たちが6人居て、それぞれ丹生麿、赤麿、白麿、黒麿、手之麿、差麿というと書かれています。
そして、本人は「椎棹之珍彦の命(シイザオノウズヒコ)」という名前を賜って、奈良の国主(くず=奈良市長クラス)に大抜擢されています。
何の活躍をしたご褒美かというと、やはり新羅の水軍を沈めているのです。
(3)鈴木岩室の命(スズキイワムロ)
稲飯のかわりに、新羅の国の王主の婿となった鈴木岩室の命という人物ですが、この方こそ、「任那の国を創建したという天の日矛」またはその祖先であり、のちの神功皇后の祖先にもあたる方と考えられます。
だから、古事記でもわざわざ一章を割いて、「天の日矛は牛飼いであったが難波に渡ってきた」という記述を載せているのではないでしょうか?
つまり、単なる外国人ではなく、その後、この人物が皇室または皇室に近い存在になったという証です。
以上の考察から、この記述は神武東征の頃、推定紀元後2~3世紀にあった史実が、間違えて第15代の治世ということで伝わっているのではないでしょうか?
あるいは、2つの『三韓征伐』は、混同されて、同じ要素で書かれているという可能性もあります。
さらに、後代になってからの『神功皇后の三韓征伐』も、このときの記述を参考にしているのかもしれません。
いまのところ単なる思い付きの域を出ていませんが、わが国と朝鮮半島の関係を語るうえで、重要な記述であることは間違いないと思いますので、専門家による詳細な検証が待たれるところです。
いずれにせよ、「かつてウガヤフキアエズ王朝は朝鮮半島まで支配下に収めていた!」という伝説は、この記述により、さらに現実性を帯びてきたのです。
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