江戸時代末期の天保年間、大分県大野町から発見された謎の古文書「ウエツフミ」を、国学者の幸松葉枝尺が、豊国文字を解読してカナに翻訳しました。
これが「宗像本」です。
しかし、原本は明治6年に洪水で流されて消失します。
明治7年、大分県竹田市出身の研究家・吉良義風が、「宗像本」をもとにダイジェスト版を製作して、発刊します。
これが写真にある「上記鈔譯(うえつふみしょうやく)」という冊子です。
校閲には、当時の大分県知事・森下景瑞も参加していました。
つまり、大分県民あげての一大プロジェクトでした。
そこに書かれていたのは?
いま、それをあらためて読むと、驚くべき内容が書かれています。
例えば
◆天照大神は宮崎県橘の小門に降臨したので、ここを「日向の国」という。
なぜなら天照大神の別名は日向方媛(ヒムカタヒメ)というからである。
◆その孫・ニニギの命は、祖母山に降臨して、大分の霊山のふもとに大宮を造った。
これを「大分(オオキタ)の宮」という。
◆そして、竹田市付近にはもうひつとの都「フタノボリの大宮」があった。
◆豊の国には、ニニギの孫・ウガヤフキアエズ天皇が王朝を開き、第74代に至るまで約数百年ものあいだ繁栄した。
◆そして、第73代が神武天皇であり、この時代に大分県から奈良県の橿原に遷都した。
ところが、明治時代から現在に至るまで、この古文書は攻撃され続けているのです。
学会は、これを偽作扱いし、全く無視。
現在でも、原本とは異なる珍説を唱える研究者も多く存在します。
実は、吉良義風が心配していたのも、このことなのです。
「この本は、のちのち攻撃されるだろうから、改竄されないように、本当の記述内容をメモした。だから後世のひとたちはぜひ参考にして欲しい」と、前書きに書かれています。
大分県竹田市出身の私が、熱心にこの「古文書」の解読と普及に努めている理由が、お分かりいただけましたか?
いま、国立国会図書館のデジタル・ライブラリーで、その内容をPDFで読むことができますので、ぜひ下記からどうぞ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772039/1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772040/1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772041/1
さらに、冒頭の部分だけ、私が現代語訳してみましたので、興味のある方は下記から。
『上記鈔譯』現代語訳
「上記鈔譯」歴史部第一
<第一綴>
天之御中主より、イザナギに至るまで、国家建設に功労のあった34神を記す。
皇祖・アメノミナカヌシは、イザナギ天皇に
(天の職務を兼ねる神様になったのは、国家建設に功労のあった後である)、
天のヌホコを授けて、諸国を巡幸させた。
おおよそ28カ国を巡った。
(淡路から始めて四国、中国を経て東北諸国にまで及ぶ。紀州熊野に起る)
諸皇子が誕生したが、ヒルコは流した。
カグツチを生んだとき、イザナミ皇后は疲労困憊し、「7日7晩自分の姿を見ないで欲しい」とお願いしたが、天皇が怪しんで覗いたので、皇后は嘆いてヨモツ国に逃げた。
アメノミナカヌシは憂慮して、イザナギ天皇を迎えに行かせた。
皇后が、天皇に従って帰還するとき、雷(イカヅチ)が醜女を連れて追いかけてきた。
お付きの神たちが、これを助けてヨモツ平坂まで逃げさせた。
これをチビキの神という。
ヨモツ平坂とは、出雲のイウヤ坂(伊宇郡)のことである。
<第二綴>
ここで、イザナギ天皇・イザナミ皇后はともに、
日向の立鼻の小門(那珂郡)で禊をした。
すると、天燿日向方日女(アマサカルヒムカタヒメ)が降誕した。
これが天照大神である。
次に、速進男(ハヤスサノヲ)が降誕した。
ここに、皇祖アメノミナカヌシは詔して、日向方媛(アマテラス)に天職を譲り、速進男(スサノオ)を摂政に任命した。
カグツチを、オオケツ国の阿波の鳴海(板野郡オホケ山)に
シナツムスビを、タケヨリ国(土佐)のスミの小門(高岡郡スサキ)に
ミザワムスビを、愛媛(伊予)のヤノダの小門(宇和郡矢野)に、
ハニヤマヒコを、白日(筑前筑後)の小門(早良郡小門浦)に、
それぞれ配属した。
ムグチイを医師頭に任じ、
皇族たちの職位も定めた。
アキタマを教正(人民のサキ魂クシ魂を守る神)に、
オホコトオシオギをして農民に語学を教えさせる。
カグツチは、噴火山を検査する。
ミツハノオは、水理を検査する。
摂政スサノオは、親王オオヤマツミに命じて、木の種を撒かせた。
オオヤマツミは慈母(ミハハ)の国(出雲)を守りたいと申し出た。
アマテラス天皇は、オオマガツヒを切って、毒虫・猛獣のたぐいを殺した。
ヤソマガツヒも殺して、21凶徒を処刑した。
ここに、皇祖アメノミナカヌシは詔して、イザナギを天職に任じた。
イザナギ天皇は崩御し、日若宮(ヒノワカミヤ、淡路?)に葬られた。
皇后は、出雲のビワノ山の頂(出雲と伯岐の境)に葬られた。
----- 続く -----
赤星憲一 (水曜日, 27 1月 2016 08:59)
豊後大野市立図書館には、吉良義風の「上記抄訳」写本があります。
私は大野町田中の出身です。父は、宗像本が発見された土師地区の出身です。
先日、佐伯保養院のお医者さんの山内先生が、認知症の講演で三重町に来られた際
うえつふみの医学、天文の記事を見て、その記事の膨大かつ緻密なことに驚かれ、
「偽作が真作がは別として、これにはロマンがありますね。村おこし、観光資源になります。
今日は、認知症の予防施設ひなたぼっこででおいしい団子汁を食べ、貴重なうえつふみの話を
聞き、2つも良い事がありました。」と言われました。
管理人 (水曜日, 27 1月 2016 10:22)
赤星憲一様
いつも貴重な情報ありがとうございます。
私の叔母が田中に嫁いで、清水という家に入りました。今は長男(私のいとこ)が跡を継いでいます。
私の生い立ちは、すべて「ウエツフミ」につながっているような気がします。
赤星憲一 (水曜日, 03 2月 2016 23:39)
余談 大分県大野郡大野町田中の最乗寺では、サンカ作家三角寛が19歳まで過ごした。(清水家について・・田中936番地戸主清水福徳さんの姉清水ミヤコさんと昭和初年、自分の母方祖父首藤米人(農協組合長首藤玉彦弟)離婚。藤島先生の清水家とは無関係かもしれません。)