ニセ斎部氏の正体!   神武天皇に近づいてきた謎の祭儀集団

現在でも天皇家に大きな影響力を持つといわれている「忌部氏」と「斎部氏」ですが、そのルーツは謎のままです。

 

ところが、「ウエツフミ」と「古語拾遺」の比較から意外な事実が浮上してきました。

 

それは、「ニセ斎部氏」が存在し、それは多分帰化人であり、意図的に天皇家に近づいてきた痕跡が見えるのです。

 

まず、「ウエツフミ」の記述から紹介しますので、少し長くなりますが、理解しておいてください。

 


橿原宮の新築を申し出た謎の人民たち

神武天皇は、橿原に遷都した直後、ボロボロの掘っ立て小屋に居んでいました。

原文では、「柱ハ掘立てになし、藁縄以て結ゐ縛り、板ハ薄く、屋根の藁草を負イ葺きとなし、その建て状低く、狭く」とあります。

 

「これでは、その辺の家臣の屋敷よりも見劣りするではありませんか!」と、どこからか集まってきたキコリや石工たちが、無償奉仕で新築することを申し出ます。

 

ところが、神武天皇にはしっかりとした考えがあってのことでした。

「人民の提案には涙が出る。しかし、今宮を建てれば、この国の災い人であったナガスネヒコが妬むのでマズイ。あえて実行すれば天の神に対する罪となる。だからみんなに帰るように告げよ!」というのです。

 

さらに天皇・皇后みずから出て説得したのですが、集まった人民たちは言うことを聞かず、泣きながら「飢え死にするまでここを動きません」と、まるでハンストのような行動に出たので、神武天皇も心を動かされ、仕方無しに新築を許可します。

 

多分、神武天皇自身は「善良で奉仕的な人たちが集まってくれて、ありがたいことだ!」と、思ったのでしょう。

だからこの事実を、日向族の正史である「ウエツフミ」に書き残したのです。

 

ところが大問題なのは、この人民たちというのが、普通の平民ではなかったということです。

 

そのことを裏付ける記述が、「古語拾遺」にありました。

 


新宮建設を行ったニセ斎部氏

この橿原宮の新築に関して、「古語拾遺」には、下記の記述があります。

 

<現代語訳>

天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫。]に命じ、手置帆負・彦佐知の二神の孫を率いて斎斧・斎鋤を持ち、始めて山の材木を採取し、正殿を建てた。

[所謂、底津磐根(ソコツイワネ)に太い宮柱を建てて、高天原に届くほど高く御殿を造られた。]

その末裔は今は紀伊の国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居る。[古くは正殿を麁香と言う。]材を採取する斎部の居る所を御木と言い、殿を造る斎部の居る所を麁香と言うのはそのしるしである。

【出典】http://kakunodate-shinmeisha.jp/kojiki3.html

 

「天富命」・・・アメノフトダマの子孫である斎部氏の祖

「手置帆負」・・・讃岐國の忌部の祖

「彦狹知」・・・紀伊國の忌部の祖

 

つまり、この3人が皇居新築の中心人物であったと自慢しています。

しかも、自らオノとスキを持って木材を伐採し基礎を据えた、つまりキコリや石工であったと言っています。

 

本当でしょうか?

私は、この記述もまた事実だと考えます。

 

つまり、ウエツフミに書かれた「一見善良な大衆たち」に見えた人たちとは、「自称・忌部氏」であり、最初はキコリや石工であったが、その後、(この功績が認められて?)皇室内に入り込んで来たということでしょうか?

 

そうでなければ、ウエツフミにも「イムベ氏が建築した」と記されるハズです。

 

のちの時代の「穴太衆(あのうしゅう)」もそうですが、お城の石垣の建築に従事することにより「図面」を入手した人たちが、戦乱の時代には「隠密」として活躍し、勝敗を左右することを、神武天皇は自覚していなかったようです。

 


古語拾遺の記述の信ぴょう性

問題は、「古語拾遺」に書かれた「斎部氏」が、本物のフトダマの子孫か?

それともニセモノか?

という点ですが、私は下記の根拠から「ニセモノ」と断定しました。

 

<証拠 1> 斎部氏の子孫が住んだという土地

「紀伊國名草郡」という土地ですが、ここで何の事件があったか、ご存じでしょうか?

そうです、神武天皇の兄・五瀬の命が、ここで殺害されているのです。

 

一夜の宿を借りた名草郡の長(名草トジ)が、寝返ってナガスネヒコ側につき、五瀬の命ら一行に酒を飲ませて、寝ている間に急襲したのです。

 

すなわち、日向族から見れば、憎き怨念の敵が住んでいた土地ということであり、そこから宮中の神事を取り仕切る重要な人物が登場するとは思えませんし、逆にそこに住むことも忌み嫌ったハズです。

つまり、敵がその正体を隠して忍び込んできたとみるほうが自然です。

 

<証拠 2> 天富命って誰?

最大の問題点は、「天富命」という謎の人物です。

この方が、本物のフトダマの子孫「斎部氏」であり、フトダマに付き添ってきた別の神の子孫である「忌部氏」を取り仕切って、宮中の蔵を管理し、祭儀用の物品を調達させたと「古語拾遺」では説明されています。

 

ところが、ウエツフミでは「天富命」なる人物は存在しません。

例えば橿原宮に神を招く儀式では、下記のとおり本物のフトダマの子孫たちが活躍しており、「天富命」と思われる人物は見当たりません。

 

中臣春武の命 (アメノコヤネの子孫)

中臣道臣人の命 (神武東征で大活躍した作戦参謀)

表春楮緒玉の命( オモイカネの子孫)

・・・以上3人が祝詞を上げる長人

イミベ差別の命 (斎部か忌部か不詳)

太玉大富の命

イミベ種越の命 (斎部か忌部か不詳)

・・・以上3人が幣を奉る首人

 

仮に、「太玉大富の命」が「天富命」になったのだとしましょう。

では、なぜここから中国風の名前に変えられたのでしょうか?

私の名前を、「藤島寛高の命」だとすると、急に「藤寛命」と呼ばれ始めたようなものであり、私は不愉快です。

 

ここに、「何かを誤魔化すためのテクニック」が入っています。

つまり、天富命は最初から天富命であり、ウエツフミに登場する本物のイムベ氏とは別人であったということです。

 

<証拠 3> 「斎部氏」と「忌部氏」との関係

さらに、次の問題点は、「手置帆負」と「彦狹知」を、

前段では忌部氏

後段では斎部氏

と矛盾した表現がされていることです。

 

「フトダマに付き添ってきた別の神」の実在性をウエツフミで検証すると、確かに存在しているではないですか。

ただし、時期が全く違います。

いずれもニニギが降臨する前の「天の岩戸隠れ」の時代に存在した神々です。

 

【太玉命の率ひるところの神の名に曰く】

天日鷲命 阿波國の忌部等の祖

手置帆負命 讃岐國の忌部の祖

彦狭知命 紀伊國の忌部の祖

櫛明玉命 出雲國の玉作の祖

天目<日一本>一筒命 筑紫と伊勢の両國の忌部の祖

 

つまり、「忌部氏」こそが本物のフトダマの子孫たちであり、その上に乗っかって指揮したとされる「斎部氏」こと「天富命」だけが正体不明ということになります。

 

<証拠 5> 天富命の出自に関する記述

古語拾遺では、冒頭に神々の系図を説明する記述があるのですが(下記参照)、「天富命」なる人物はその神様系統図には入っていません。

文中にカッコ書きで(太玉命の孫)とあるだけで、「天富命」とフトダマをつなげる証拠は「古語拾遺」にも無いということです。

 

<証拠 6> 「今は阿波に居る」という記述

もともと大和の地に居て、神武天皇の新宮を建設したり、神器を調達していた人たちが、この「古語拾遺」が書かれた807年になると、なぜ「今は阿波に居る」のでしょうか?

まるで、都落ちです。

千葉県館山市にある「布良崎神社」には、「天富命上陸の地」という伝承があり、ここから上陸した一族が、大和に入り、阿波へと渡って行ったのではないでしょうか?

 

以上の考察から、私の結論は、天富命なる人物とその一族が突然登場し、古くからあった忌部氏の上に乗っかったか、それに取って替わったということです。

 

上述のとおり矛盾だらけの「古語拾遺」の記述は、あちこちで辻褄が合わなくなっており、真実を伝えたものではないということです。

 


推 論

つまり、下記の3つの解釈が成り立ちます。

 

◆古語拾遺が第三者により加筆修正されている

「古語拾遺」を書いたのは、斎部氏の子孫ですから、自分の祖先の記述を間違えるハズが無いと考えると、あとから何者かが加筆した。

 

◆古語拾遺の作者自体がニセ斎部氏である

つまり、本物の「イムベ氏」を陥れて、自分たち「ニセ斎部氏」の正当性を主張するために、嘘八百の記述を書いたという解釈です。

 

◆もともとイムベ氏のもとで物品調達を行っていた「品部」が、下剋上して、自ら「斎部」を名乗り始めた。

私は、最後の解釈が一番近いと考えます。

神武天皇ら日向族が、「倭国大乱」により滅ぼされたとすると、この王朝を支えていた祭儀集団もごっそり入れ替わったと考えるほうが自然です。

もともとはキコリや石工であったと、自分たちも認めていることですから。

 

真相は、全く闇の中ですが、たったひとつだけ確実に言えることは、

「橿原宮の建設を通じて近づいてきた謎の集団が居る」

ということです。

 


ニセ斎部氏の正体

 それでは、最後になぜこの集団が、帰化人といえるのか?

について説明します。

 

まず第一に、「古語拾遺」を書いた斎部広成が、「物部氏」系統であったことはほぼ間違いないと思います。

なぜなら、「ニギハヤヒ」や「ヤタガラス」や「天の磐船」を実在の人物とみなすことに、その特長があります。

日向・出雲神話では、あくまでも天上界の神様や動物や乗り物であり、地上で活躍したという記録は無いからです。

学会ではどう説明されているのか分かりませんが、私はこの3人が出てきたら「物部系」だと判断しています。

 

第二に、「古語拾遺」に書かれた「渡来人」に関する記述です。

応神天皇の時代に下記の3つの渡来人が帰化ししたとあります。

 

◆百済王は博士の王仁を奉った。王仁は河内の文首(フミノオビト)の始祖である。

これがニセ藤原氏の正体であり、文首は記録係という役職名で、その後、藤原不比等を出した。

なお、河内とあるので住吉大社がその起源か?

中臣氏とは何の関係もない(あるとしたら外戚関係)、純粋の百済人である。

 

◆秦公(はたのきみ)の先祖の弓月(ユヅキ)は百二十県余りの民を率いて帰化した。

この一族が絹を献上していたので、麻を献上したニセ斎部氏とは異なる。

 

◆漢値(アヤノアタイ)の先祖の阿知使主(アチノオミ)は十七県余りの民を率いて来朝した。

漢族に支配された高句麗の子孫と思われる。

 

問題は、「ついに秦・漢・百済より信服した民は各々万をもって数えられ、褒賞するに足りる。みなその祠が有ったけれども未だ幣例を預かる事はなかった。」と言っており、

帰化政策を歓迎していること、その祖先を祀る祠に(朝廷から)幣が出ているのはウチだけだ、と自慢していることです。

「自分はほかの帰化人とは違う」と言っていることが、逆に帰化人を自認する証拠にも見えます。

 

この記述から分かるのは、上記3部族とは別の帰化人であったということです。

 

第三に、中臣氏の斎部氏に対する態度です。

もともと「古語拾遺」とは、斎部氏によって提出された愁訴(しゅうそ)状であって、徐々に祭儀の担当を外されて、中臣氏により独占されてゆく状況が、切々と訴えられています。

逆にいうと、中臣氏はニセ斎部氏を全く信用していなかったことが分かります。

 

第四に、これが決定的な証拠ですが、崇神天皇の時代にヤタの鏡を造っていることです。

斎部氏に石凝姥神(イシコリドメノカミ)の末裔と天一箇神(アメヒトツノカミ)の末裔の二氏を率いさせて鏡を鋳造させ剣を作らせた。是を護身の御璽とされた。是が今、践祚の日に獻、神の御璽の鏡と剣である。

 

つまり、ヤタの鏡はこのとき新たに鋳造されたということであり、もしそこにヘブライ文字が入っているというのが事実ならば、ニセ斎部氏はヘブライ語を使う民族であったということです。

 

第五に、新たな租税としてケモノを貢がせていることです。

崇神天皇の時代に、

初めて男の弭(ユハズ)の調[弓矢などで取った獲物]と女の手末(タナスエ)の調[女性の手で作った絹の布など]を貢がせた。いま、神祇の祭りに熊の皮・鹿の皮・角・布などを用いるのは是が元である。

 

ウエツフミに書かれた弥生人たちは、ケモノを穢れたものであるとして、忌み嫌っていたのに、それを神事に用いたというのですから、このときの斎部氏は、古来からの日本人ではないということです。

 

第六に、オオタタネコとの関係です。

記紀では、(4)と(5)を行ったのは、オオタタネコであるとしていますから、オオタタネコとはニセ斎部氏であり、帰化人であったということになります。

 

以上から、ニセ斎部氏とは帰化人であり、のちのオオタタネコであるという結論に至りました。

 

ネットで検索すると、「ユダヤの失われた支族のうちのレビ族である」という説が出てきますが、ほぼこれに間違いないと考えられます。

具体的にどこから来た何族なのかは、ここではあまり詮索しないことにします。

 


本物のイムベ氏はどこに?

安心してください、きっとどこかに必ず居るハズです。

あるいは、忌部氏と名乗り、斎部氏と名乗り、斎藤氏となっているかもしれません。

 

私の推測ですが、ニセ斎部氏に追い出された本物のイムベ氏は、ひっそりと目立たないよう山中で暮らすようになり、のちの「サンカ集団」になったのではないかと考えています。

その集団が、密かに「ウエツフミ」を伝えてきた可能性が高いのです。

 

その「ウエツフミ」によると、五穀豊穣を司る神様であるオオケツ姫が、日本国に一番最初に降臨しています。別名、豊岡姫であり、豊受姫であり、ウカノミタマです。

 

記紀では、スサノオに殺害されたとしていますが、ウエツフミでは蘇生術でみごとに蘇っており、この神様が祀られた神社が、ニセ斎部氏により「お稲荷様」に変えられたのではないかと睨んでいます。

 

そして、この姫が統治する国が「オオケツ姫の国」であり、のちに「大宜都国」となり、現在の徳島県なのです。

 

だからここが、「農業の発祥の地」であるということを、徳島県人の方は大いに誇りにして欲しいと思います。

 


コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    通りすがり (金曜日, 04 3月 2016 04:59)

    阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、
     母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」

    また
    「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし」
    とあり、忌部であることは間違いございません。
    お妃の名も「高屋阿波良姫」と、すっごく意味深ですしね(笑)

    U+A0はっきり言ってみれば、物部の系図の中、「大麻綜杵命」「伊加賀色許賣命」「伊香色雄命」は「忌部氏」なのです。
    無論、その当時「忌部」と言っていたかどうかは別の話ですけどね。


    阿波の地に日本で唯一「大麻綜杵命」を祭る神社があり「伊加賀色許賣命」「伊香色雄命」を祀る神社が現存し、「大麻綜杵命」から転じた「麻植津賀(おえづか)」「麻植塚」の地名、また「伊加々志」という、そのままの地名が残っているという事実を記すまでです。

    ちなみに元副総理、後藤田正晴氏とその甥、女優 水野真紀の夫、自民党衆議院議員の後藤田正純氏は天富命の子孫