神武天皇は、九州・豊の国から奈良県の橿原宮へ遷都します。
これを、後世の人たちは『神武東征』と呼びました。
多分、紀元後1~2世紀頃のこと。
この遷都が、ウガヤフキアエズ王朝(日向王朝)にとっては、命取りとなります。
なぜなら、自分たちが滅ぼしたナガスネヒコの土地に遷都してしまったからです。
「ウエツフミ」にさえ記録が乏しい、この日向王朝の最終章を、これまでの私の研究をもとに再現してみます。
神武天皇が犯した最大の間違い
まず、結論を先に書きます。
神武天皇が犯した最大の間違いとは?
旧ナガスネヒコ勢力の人材を重く登用して、近畿周辺に配置したことです。
それは、「とりあえず人を信頼する」という、九州人独特の大らかな「性善説」から来ているのですが、神武天皇のこの素直で純朴な性格が、当時、いろんな勢力が狙っていた近畿の地では通用せずに、逆に信頼を裏切られる結果になってしまうのです。
それでは、その内容を詳細に見てゆきましょう。
統治体制----人員の配置
◆奈良県知事(秋津根のタケル)---ウマシマテ【途中参戦組】
ニギハヤヒの子孫とされ、ナガスネヒコの甥だが、ご神刀を叔父に奪われたことに憤慨して神武方に付いた。
最後は叔父のナガスネヒコに止めを刺し、自殺に追い込む。
(記紀ではナガスネヒコが死亡したかどうか不詳)
その登場の仕方が不自然だったので(ボロをまといフラリとやってきた)、最後まで家臣たちからは信頼されなかった。これが「物部氏の祖先」とされている。
◆大和市長(大和の国主)----ウズヒコ=シイネツ彦【途中参戦組】
佐賀の関で「舵取り」を申し出て合流してきた謎の水軍の長。
また、占いに必要な埴土(はにつち)を、仮装して敵陣をくぐり抜け、香具山から取って来たことでも功名を上げる。
古語拾遺では「大和氏の遠祖」としている。
◆宇陀市長(宇陀の国主)----ウガシ氏の長男(エウガシ)の息子
ウガシ氏はもともと宇陀の国主を任されていた名門だったが、兄がナガスネヒコ方に付いて滅ぼされたため、弟(オトウガシ)が「せめてその息子に跡を継がせるよう」懇願して認められる。
⇒記紀はオトウガシ、エウガシの兄弟としているが、兄のウガシ、弟のウガシと解釈すべきで、正体を悟られないためわざと混乱させているのではないか?「五瀬の命」を「彦五瀬」としているのと同じ。
◆タケタ町長(タケタトジ)----ウガシ氏の次男・オトウガシ【途中参戦組】
そのウガシ氏の次男だが、弟のウガシとあるだけで本名不明。
◆磯城町長(シキトジ)----磯城氏の四男・クロハロ【途中参戦組】
磯城氏は、もともと宇陀の十市の国主を任された名門だったが、長男と三男がナガスネヒコ方に付いて滅ぼされる。(次男の記録は無い)
残る四男は、味方の情報を密告することで許されて、国主から町長に格下げされて存続。
のちに、欠史八代天皇の時代に、皇后を出すことで大きな権力を握る。
⇒なお、この磯城氏こそナガスネヒコ一族だという説もあるが、詳細は不詳。
◆ナガスネヒコの七男・髓田輪之男郎(スネタワノオロ)
捉えられたが、お祓いをしただけで、無罪放免。
当時は、「刃向かう者は討つが、逃げる者は追うな」という鉄則があった。
(第33代の記録にこの教えがある)
記紀は、この人物については、全く触れていない。
⇒一方、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)では、ナガスネヒコは兄・安日彦とともに東北に逃げのびたと伝えているが、もしかしたら逃げのびたのはこの七男であり、津軽の地で「蝦夷」と呼ばれた「アラハバキ族」の王になった。
そして、神武の息子・タギシミミが、その後大和で即位したとある。
これが何天皇にあたるのかは不詳だが、下記に述べるように、「ウエツフミ」でもタギシミミが東北に赴任したことは認めている。
しかもタギシミミの母親は熊襲なので、熊襲と蝦夷の連合政権が誕生したということか?
(この説は、大いに可能性があるので、またあらためて詳しく書きます。)
⇒以上の人物について詳しい記述は、こちら。
このように、神武天皇は、近畿周辺のほとんどを【途中参戦組】で固めました。
途中から参戦したといえば聞こえは良いのですが、要するに元の上司であるナガスネヒコを裏切った油断ならない人たちですから、その後、神武天皇を裏切ることも充分に考えられる訳です。
多分、神武天皇は、地元の事情に精通した人材を優先して配置したのだと思います。
なぜなら大分県出身の神武天皇にとって、奈良の地は見るも聞くも始めてという異郷の地だったからです。
それでは、神武天皇の家族や側近たちはどのように配置されたのでしょうか?
身内の配置
◆大久米(叔父)---畝傍川の西辺に居住
◆高倉下(叔父)---和歌山県知事(草木根のタケル)として(五瀬が祀られた)竈山神社の南側に居住
◆高津神たち----葛野に居住
◆臣の上たち----その周辺に居住
◆長男のカムヌナガワミミ----のちに第74代に即位して綏靖(すいぜい)天皇と呼ばれるが、ウエツフミでは「即位した」とあるのみで、ここで記述は終了。
◆次男のヒコヤイミミ----橿原の榛原の小野に建立された「橿原神宮」の初代宮主となるが、その後歴史には登場せず、物部氏がこの神主の地位を継いでいることに注目。つまり滅ぼされたか?
◆三男のカムヤイミミ----阿蘇の地方長官(ハセダキの上)となるが、「阿蘇神社伝承」
には「阿蘇氏の始祖」とあり、ウエツフミの記述と一致する。
◆異母兄のタギシミミ----神武東征の途中で帰国し、乱心して神武天皇の正妻・イスケヨリ姫に手を出したので、兄弟たちと刃傷沙汰に発展するが(タギシミミの反乱)、死んだとは書かれていない。
その後東北に赴任し(左遷された?)、陸奥の国の地方長官(ハセダキの上)となり菊多山に居住。つまり上記の『東日流外三郡誌』の伝承とつながる。
このように、神武天皇は自分の身辺を【途中参戦組】で固め、逆に身内の者を遠国に配置しているのです。
多分、領土が広がって手が廻らなくなったので、信頼できる人材を辺境に配置したのだと思いますが、これでは家臣に裏切られた際には、ひとたまりもありません。
さらに、神武天皇の失策は続きます。
それは、橿原宮の皇居の新築を、集まってきた見ず知らずの大衆に任せてしまったことです。
このことは、以前に書きましたので、こちらから。
結 論
以上は、神武天皇に関して記された「ウエツフミ」の記録を再現したものですが、ここからウガヤフキアエズ王朝は、滅亡に向かったものと推察されます。
この【途中参戦組】が、のちに政権を奪って「欠史八代」と呼ばれる天皇たちになったのではないかと考えられますが、残念ながら、ウエツフミにもその後の記録が存在しないため、何が起こったのかは想像で補うしかありません。
たったひとつ言えることは、
「勝って兜の緒を締めよ!」
ということでしょうか?
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