シイネツ彦は丹生一族の出身だった!
神武東征の際に、船の舵を取って道案内したとされるシイネツ彦ですが、その本名が「ニウ彦」であったと『ウエツフミ』は伝えています。
だから、その妻または祖先が「ニウ津姫」なのです。
ここでは、その記述内容を速足で説明します。
『ウエツフミ』が伝える正しいご由緒
◆弥生時代に、大分市の坂ノ市付近には「ニウの水門(みと)」または「ニウ津」と呼ばれた良港がありました。
◆当時の首都「大分の宮」からも近く、豊後水道の速い潮流(速吸の瀬戸)に乗って、どこに出かけるのにも便利な場所でした。
実際に歴代ウガヤ天皇がここから四国や関西へ向けて旅立っています。
◆地図で表記するとこのあたりです。(丹生川の河口付近)
◆この坂ノ市あたりを本拠地としていた海人族が居ました。
彼らは「ニウ一族」と呼ばれていたのです。
◆そして、この「ニウ一族」から有名なシイネツ彦が登場します。
彼はもともと「ニウの竿彦」と呼ばれていました。
つまり「丹生村の村長で舵取り名人」という意味でした。
◆彼は、神武東征の際に道案内を勤めたので、その功績により「椎の木でできた竿と“サオ彦”という名前」を、神武天皇から直接賜ります。
だからのちに「椎根津彦」と呼ばれたり、「珍彦(うずひこ=珍しい名前の男という意味)」や「珍栄彦(うずさかひこ)」と呼ばれたりします。
◆そして、このシイネツ彦の妻、または祖先が「丹生津姫」として神社に祀られたのです。
つまり「ニウの港を守る水神様」という意味です。
ちなみにウエツフミでは、「丹生津彦と丹生津姫」の夫婦神でした。
◆よく「丹生とは水銀、または朱のことである」と誠しやかに語られていますが、全く関係ありません。
これは後代になってから弘法大師を神格化するために用いられたフィクションです。
「ニウ」の当て字である「丹生」から水銀を連想したのでしょうか?
◆そして神武天皇が奈良に遷都したのちは、このシイネツ彦は初代の大和国国司に大抜擢されます。
だから今でも大阪や和歌山にシイネツ彦が祀られているのはそのためです。
消されたシイネツ彦一族
どうでしょう?
ものすごく速足で説明しましたが、分かっていただけましたか?
そして、このシイネツ彦に関する伝承が全くあいまいにされている理由はもうお分かりですよねえ。
そうです、何者かに滅ぼされたのです。神武天皇と一緒に・・・・!!
そういえば、日本書紀には「大分の速見邑を侵略した景行天皇が、洞窟に籠って抵抗した青と白の2人の土蜘蛛族を滅ぼした」とあります。
実は、この「青」と「白」とは、シイネツ彦の息子たちである「青棹彦(青麻呂)」と「白棹彦(白麿呂)」だったのです。
時代的に合致しないのは、後代になってから意図的にそのように編集されたのでしょうか?
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