ある日『豊後国誌』をぼんやりと眺めていた私は、そこにあった短い記述に目が釘付けとなります。
「九重山上には綏靖(すいぜい)天皇が祭られている。
だから、この山を【綏靖山】と呼ぶ。」
これは一体どういうことでしょうか?
天皇家には何の縁もゆかりも無いハズの大分県民が、実在したかどうかさえ分からない謎の天皇を、二千年以上も神とあがめて信仰していたことになります。
しかも、ここ九重山は九州本島最高峰のピークであり、いわば神座としては特等席。
なぜここに、この人の名前が?
やはり、『ウエツフミ』が説くところの「神武天皇大分県人説」は正しかったのでしょうか?
大分県民さえ全く知らなかった衝撃の真実を、順番に解説してゆきましょう。
そもそも豊後国誌とは?
江戸時代中期、松平定信が「寛政の改革」を行っていたまさにその頃の1797年(寛政9年)、なぜか江戸幕府は豊後岡藩(現在の大分県竹田市)に国誌(その土地の歴史と風土)の編纂事業を命令します。
ときの岡藩主・中川久持公が、編集長として指名したのが儒医の唐橋君山でした。
ここに有名な水墨画家の田能村竹田も編集委員として参加しています。
⇒詳しくは、こちら。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD%E5%BF%97
いずれにせよ、江戸幕府に提出するための岡藩としての公式記録であり、第一級の歴史資料であるといえます。
そこに書かれていた内容とは?
直入郡(現在の竹田市)にある著名な神社のリストのなかに『九重山明神祠』という項目があり、下記ように説明されています。
短い一文なので、全文を掲載します。
【九重山明神祠】
朽網郷(現在の竹田市久住町)の九重山上に在り。
綏靖天皇を祭る。
故、其の峯、綏靖山という。
延暦中[782-806]の創むる所なり。
天台修験歓喜院、祭事を掌る。
なんと奈良時代から存在した古い神社仏閣であり、その祭事を天台宗の「歓喜院」という所が行っていたということです。
「歓喜院」は大分県にはありませんので、天台宗の総本山・比叡山の「歓喜院」のことと思われます。(真言宗の歓喜院はこの頃まだ存在しない)
つまり、大分県民だけの強い思い込み、あるいは勘違いではなく、全国レベルで認知されていたということになります。
【参考】くじゅうさんは、南(竹田市側)から見た場合は【久住山】と表記し、北(玖珠郡側)から見た場合は【九重山】と表記する。
そもそも綏靖天皇とは?
神武天皇の御子であり、その後継者として第2代天皇に即位した【綏靖(すいぜい)天皇】ですが、どういう訳かほとんど記録が残っていません。
そのため「実在しなかったのでは?」と疑われ、現在では【欠史八代天皇】に数えられています。
大分県から発見された『ウエツフミ』にさえ、さらりと下記の3点が記されているのみです。
(1)神武天皇(ヒダカサヌ)の長男としてカムヌナガワミミが生まれた。
生母(=ヒダカサヌの正室)は、臼杵出身のヨリ姫で、イスケヨリ姫という。
このお方が、第74代・ウガヤフキアエスの命を襲名して、天皇に即位する。
のちに正式名称を、「天邇芸志国邇芸志天津日高日子波限建神大倭大磐余彦火々出見の 命」と名乗った。
幼名「カムヌナガワミミ」のいわれは、臼杵の大の浜に産屋を建てようとしたところ、臼杵川の上流の渟名川から材木が自然に流れてきたので、これにちなんで名付けた。
(2)神武東征の最中に、腹違いの兄・タギシミミに化け猫が取りついたので、残る兄弟4人で力を合わせて悪霊を退治した。
タギシミミは生き延びて福島で医者となった。
(タギシミミが滅ぼされたとする記紀の記述とは異なることに注目!)
余談になりますが、このときタギシミミは父・神武天皇の奥方・イスケヨリ姫を口説こうとします。
大ピンチの奥方が歌に託して自分が狙われていることを他の兄弟たちに知らせるのですが、
その歌の中に「祖母山(そもやま)」という地名が入っています。
どういう訳か、古事記はこれを「畝火山」に書き換え、日本書紀はこの歌を削除しています。
つまり、その犯行現場は祖母山の近くだったということです。
(3)カムヌナガワミミが即位すると、残る兄弟たちもそれぞれ全国に散らばって活躍した。
腹違いの兄タギシミミは陸奥の菊多山で地方長官となり医学を教えた。
次男のヒコヤイミミは橿原神宮で神官になった。
三男のカムヤイミミは阿蘇山で地方長官となり医学を教えた。
腹違いの弟キスミミだけが何も書かれていない。
そして、なんとも奇妙なことに、ここで『ウエツフミ』の記述がプッツンと途切れているのです。
このことから、私はいったん神武東征したヒダカサヌの一族は、何者かに滅ぼされたのではないか?と推測しています。
綏靖天皇を滅ぼしたのは誰か?
一番あり得る仮説は、「磯城氏による暗殺説」です。
磯城氏とは、大和桜井市の大豪族で、当時は奈良近隣の製鉄業を独占していました。
【参考】https://enkieden.exblog.jp/23791853/
神武東征に際しては、新羅軍と結託していた兄のエシキは最後まで抵抗して滅ぼされますが、弟のオトシキは八咫烏に恐れをなして、一族郎党の秘密情報を密告することを条件に、神武天皇の側に寝返ります。
つまり、磯城一族から見れば裏切り者ということです。
⇒以上『ウエツフミ』の記述から。
ところがどういう訳か、第3代・安寧天皇以降、この磯城氏が絶大な権力を奮い始め、歴代天皇に娘を嫁がせて外戚として繁栄を続けます。
なぜ、裏切り者のオトシキが、天皇家から信頼されたのでしょうか?
答えは、明白です。
ここで天皇家が入れ替わったということです。
だから第3代・安寧天皇から第8代・孝元天皇までを「磯城王朝」と呼ぶこともあります。
そして、このときに重要な役割を果たしたのが「事代主を信仰する三嶋氏」です。
三嶋氏は「澪標(みおつくし)」という港湾標識(大阪市のマークにもなった)を外国から持ち込んだとされる謎の海洋民族です。
(このマーク、どうみても「六芒星」の変形にしか見えないのですが・・・・念のため解説すると、男性を象徴する△と、女性を象徴する▽が、上下から合体しているように見えませんか?)
彼らにより「三島神社」のご祀神もオオヤマツミから事代主に入れ替えられました。
大国主の時代(私の推定では紀元前7世紀頃)に活躍した事代主が、なぜかこの時代(私の推定では紀元後1世紀頃)にまた復活して、娘を神武天皇に嫁がせたりしているのですが、時代錯誤も甚だしく、明らかに意図的な創作であり、ここから「背乗り疑惑」が浮上しました。
どうやら三嶋氏は、自分たちの祖先神のミシマミゾクイのことを、事代主と呼んでいるようなのです。
さてさて、話がそれて混乱してきたかもしれませんので、分かりやすく解説すると「兄のエシキと結託していた新羅軍」とは、実はこの謎の海洋民族だったということです。
『ウエツフミ』が書かれたのは鎌倉時代ですから、「新羅のほうからやってきた海洋民族」と解釈しておいたほうが無難です。
以上の経緯を象徴的に語っているのが、記紀の「タギシミミの反乱」のくだりです。
もしも・・・・
反乱を起こしたのはタギシミミではなく、磯城氏だったとしたら?
このときに暗殺されたのはタギシミミではなく、綏靖天皇だったとしたら?
綏靖天皇に矢を引いたのは、兄のエシキだったとしたら?
ビビッて矢を引くことが出来なかったのは、弟のオトシキだったとしたら?
(ちなみにシキ兄弟は四人兄弟だったとウエツフミは伝える)
そう考えれば、綏靖天皇が暗殺されたあと故郷の九重山に祀られて「九重山大明神」となったとしても不自然ではありません。
さてさて、以上はあくまでも私の仮説ですが、この綏靖天皇が没して以降、日本国は大混乱の暗黒時代『倭国大乱』に突入してゆきます。
綏靖天皇だけではない、豊後に祀られた古代の天皇
この『豊後国誌』をさらに読み込んでゆくと、あちらこちらに神武天皇の近親者が祀られていることが分かります。
例えば・・・・、
(1)ナガスネヒコと戦って戦死した「五瀬の命」(神武天皇の兄)は、祖母山に祀られて「祖母山大明神」と呼ばれています。
⇒以前の記事はこちら。
(2)九重山の隣にある「大船山」には、「速玉男命」と「泉事解男命」が祀られており、こちらは天台宗の「国恩院」が祭事を行うとあります。
イザナミとともに祀られることの多いこの二神ですが、実は神武天皇の兄の「稲飯(いなひ)」と「三毛野入野(みけぬいりぬ)」のことではないかと推測しています。
なぜなら二人とも「熊野の海戦」で戦死しているからです。
⇒詳しくは、こちら。
「大船山」の名前の由来は、大きな船が船腹を見せているような姿をしているからであり、それは新羅軍の艦船を沈めた二人の業績を思い起こさせるからなのです。
なんらかの理由により、この二人の名前を表沙汰にできないので、仮名が使われているのではないでしょうか?
そうでなければ、わざわざ国恩院がやってきて供養を行う必要はありません。
⇒詳しくは、こちら。
(3)祖母山の隣の「傾山(かたむきさん)」には、ウガヤフキアエズの命の御陵があると書かれています。
しかも、『豊後国誌』にしては珍しく長文で、宮崎県側の可愛岳ではないことを強調しています。
さらに、神武天皇もナガスネヒコとの戦いに際して、この山に登って戦勝祈願を行ったとあります。
ちなみに現在は、鹿児島県の「吾平山」とされていますが、これは明治維新で政権を握った薩摩藩が強引に誘致したもので、全く根拠はありません。
(4)「御嶽山」は、これらの山々を全て見渡すことができる小山(標高約600m)ですが、ここには「山幸彦ことホオリの命」が祀られているとあります。
(5)これは記述にはありませんが、「小富士山」に神武天皇の御陵があるのでは?との地元の言い伝えもあります。
⇒詳しくは、こちら。
(6)『ウエツフミ』によると、長男のタギシミミは阿蘇の根子岳に祀られています。
なぜなら、タギシミミに憑りついた化け猫がここで退治されたからです。
さてさて、文章ではなかなか理解できないと思いますので、これを鳥観図にしてみました。
すると、古代の天皇がずらりと【大野ヶ原】を取り囲むように並んでいること、その中心には【大野川】が流れており、まるで巨大な盆地のような形状になっていることがお分かりいただけると思います。
ここにウガヤフキアエズ王朝の本拠地があったのです。
そして、現在でも東征した神武天皇の一族を偲んで、お神楽や神社仏閣、あるいは民間伝承として語り継がれているということなのです。
最後に、日本書紀によると綏靖天皇は大変なイケメンであったと書かれています。
「その風貌には威厳があり、幼い頃から勇者の兆しを漂わせていた。男盛りになると容貌は優れて比類が無かった。にもかかわらず、その志は深く気高かかった。」
九住山の美しい山姿を眺めるたびに、地元の人たちはありし日の綏靖天皇のことを思い出していたのでしょう。
だから、この山を【綏靖山】と呼んだのです。
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