インドからやってきた山王神と獅子舞

消された山王信仰のルーツ

この4連休中の9月21日(2020年)、私の生まれた大分県竹田市のある村で、久しぶりに獅子舞が復活しました。

 

復活といっても、もう廃れかけた村の伝統行事を、都会に散った新しい世代たちが復元しようと試みただけなので、決して鑑賞に耐えられるほど立派なものではありませんでしたが・・・・。

 

それでも村中は大騒ぎで、「10年ぶりの大事件」に興奮した老人たちが夢中で太鼓を叩く様子を眺めているうちに、突然メッセージが降りてきました。

 

「獅子舞は神道由来ではない。山王神がインドから日本に持ち込んだもので、ここ日本でインドの仏教と日本の神道がみごとに習合したのだ!」と・・・・。

 

さっそくこの仮説を検証してみることにします。

 


そもそも山王様とは?

私の生まれた村の鎮守様は、山王様を祀る「日吉神社」であり、そのお祭りは獅子舞でした。

「隣の村の秋祭りはお神楽なのに、なぜウチだけが獅子舞なのだろう?」

子どもの頃からいつもそう思っていましたが、この年になってやっとその理由が見えてきたような気がします。

 

村祭りでは、まず神主が祝詞をあげて、幣(ぬさ)に降臨したご神体をお神輿に移し、そのお神輿を守るように2頭の獅子が舞い踊りながら、村中を練り歩くのです。

このとき神主が挙げた祝詞に耳を澄ましていると、「高天原」とか「天照」とか「ニニギ」とか「高千穂」とかのキーワードが出て来ましたが、どうもしっくり来ないのです。

むしろここでは「お経」を挙げるべきではないのでしょうか?

 

この不協和音を理解するためには、まず「山王神とは一体何者なのか?」を理解しておく必要があります。

このことは、以前別の記事でも紹介していますが、ここでもう一度ポイントを整理してみます。

 

◆山王神とはインドで生まれた猿の化身であり、3000年生き抜いてついに成仏して、仏となった。

 

◆仏としての正式名称は「大威徳明王」であり、怒ると(戦闘モードになると)三面六臂の恐ろしい形相となる。

⇒写真は真木大堂(国東半島)にある日本最古の大威徳明王像。

 

◆その役割は、仏教と祇園精舎(仏教の聖地)を守護することであり、同時に「天竺、唐土、日本の三か国にまたがる大王である」と自称している。

 

◆この山王神が我が国に最初に渡来したのは、西暦319年(仁徳天皇の時代)のことであり、大分県豊後大野市三重町の内山に降臨した。

⇒そのご由緒を記したのが『内山山王縁起』で、私の過去記事は、こちらから。

 

◆その150年後には、真名野長者こと炭焼き小五郎がこの地に転生し、彼の資金力で臼杵の深田の里が新たな祇園精舎となった。

⇒彼の前世は、インドで祇園精舎を寄進した大満長者であり、百済では柴守長者と呼ばれた。

 

◆これがもとで、当時神道を守護していた物部氏と対立する。

⇒伝説では、577年に物部守屋が豊後の国にまで来襲している。

⇒だから真名野長者=蘇我氏であるとするのが私の主張。

⇒関連記事は、こちら

 

◆以上の伝承から、仏教の聖地である「祇園精舎」は、下記の経路で転々と移動してきたものと見られる。

インド北部(正確にはネパール?)⇒中国の天台山⇒百済国⇒大分県臼杵市(深田の里)⇒大分県国東半島⇒比叡山

 

◆この説を裏付けるように、比叡山には「山王神道」という教えが伝わっており、三重県の度会町には「渡会神道」というものがあったが、ここが獅子舞のメッカとされている。

 

ちょっと長くなりますが、大分県豊後大野市に伝わる真名野長者の伝記を綴った『内山記』には、下記の記述がありますので、引用しておきます。

 

敏達2年(573年)6月、唐より赤栴檀の薬師如来、弥勒菩薩、名刀二振り、名僧・知識17人にて三尊の御仏を守護し、豊後の国へ来た。

真名野長者は大変喜ばれ、有智山(豊後大野市三重町内山)にて会った。

「私達は唐の般若の嶺の円通大乗寺より三尊を守護し渡ってまいりました。薬師如来は天竺にて赤栴檀を用いてつくられております。そもそもこの尊像は、天竺にて疫病が流行った折、釈尊自ら刻んで作り、祇園精舎に安置していた仏像です」といった。

長者は僧たちの勧めにより天竺の祇園精舎を深田の里に移し、諸仏を建立し、五院を建て、「紫雲山満月寺」と号した。

 

さらに興味のある方は、私の過去記事をご覧ください。

 


消された山王信仰

とするとですよ、天皇家とは何の関係もない謎の宗教団体が、突然インドから日本に渡来して、しかも全国に多くの信者を抱えて猛威を奮ったことになります。

 

『平家物語』のなかでも、山王神をかつぐ比叡山延暦寺(山門)と、天皇が保護した東大寺や三井寺(寺門)とが激しい対立を繰り返す様子が、克明に記録されています。

⇒このとき延暦寺は京の都にお神輿を繰り出して、まるで「街頭宣伝車」のようにデモ行進を繰り返したとある。『額打』の段では、天皇家の葬儀に際して比叡山の掲げた額(弔問の旗のようなもの)が、何者かにより破壊され、それが契機となって対立が表面化したとある。

 

天皇家にとっては、仏教そのものはありがたい教えであり、国家統治のために大いに活用すべき思想体系であるとはいえ、その信仰の中核をなす山王様は、にくき圧力団体にしか見えなかったのでしょう。

 

これが主な原因で、山王信仰は徹底的に弾圧され、今ではその名残を伝統行事に残すのみとなっています。

 

例えば、

 

◆獅子舞・・・・これはもともと仏舎利(お釈迦様の遺骨や遺品)をお神輿に乗せて練り歩くという仏事であった。獅子はお神輿に随伴して守護するための聖獣。多分「猿回し」も山王信仰から出たと思われるが、その根拠が見当たらない。

従って、仏教の渡来ルートに沿って、世界中に転々と獅子舞の行事が残されている。

【参考サイト】https://intojapanwaraku.com/culture/108185/

【世界の獅子舞】https://trendy-innovation.com/?p=8877

 

◆庚申塚・・・・猿神である山王神を村の境界線に安置して、悪魔が村に入って来ないように祈願したものであり、猿田彦を祀る「道祖神」とは別物。

ここから、「山王神=猿田彦同一神説」も登場する。

⇒『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)では、もともと九州は中国勢力・朝鮮勢力・インド勢力が入り乱れてドロドロの混戦状態だったので、ニニギを降臨させて平定したと伝えており、猿田彦=インド人説のひとつの根拠となっている。

 

◆庚申講・・・・もともと山王神の縁日である庚申の日の夜に、信者たちが集まって、お互いにお金や労務などの便宜を図り合ったもの。

このときに、仏教講話なども行われたが、これを「説教」と呼ぶ。

⇒大分県南部では「お日待ち」の行事として現在に伝わる。

 

◆祇園祭・・・・もともと山王神と、彼が守護する薬師如来に「疫病退散」を祈願する祭りであったが、現在ではスサノオや蘇民将来に変えられている。

⇒八坂神社はもともと祇園社と呼ばれていたが、明治時代に改名。このときにご祀神の入れ替えもあったか?

 

◆見ザル、言ワザル、聞カザル・・・・もともとは山王神社(日吉神社・日枝神社)のご神体であった。

ということは、徳川家康とそのスピリチュアル・カウンセラーの天海僧正も、山王信仰であった可能性が高い。

だから、日光東照宮や赤坂日枝神社には、三猿の像が残されている。

⇒そういえば、明智光秀が生き延びて天海僧正になったという説もあるが、なぜか明智光秀は織田信長の「延暦寺焼討命令」を無視して、ふもとの坂本の町(山王信仰の本拠地)を保護している。

⇒ちなみに、山王神の神道名は「オオヤマクイの神」であり、オオヤマツミ系統の酒造りの神であると伝わるが、これも後代になってからのこじつけと思われる。つまり天照ファミリーに集約された。

 

◆サンカ(山窩)・・・・もともと「サンガ」とはサンスクリット語で、「王様を持たない原始共同体」を意味しており、朝廷や封建領主の支配を嫌った一族が、山中に隠れて(本当の意味の)自由民権主義社会を形成していたものと思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AC

⇒ただし、大分県では大友氏が統治する戦国時代において、たびたび政治の世界にも関与しており、戦の勝敗を左右するほどの勢力を有していたと伝わる。つまり、ただの自由人の集まりではなかった。

 

いかがでしょうか?

山王信仰は、これだけの足跡を、日本人の心の中に残しているのです。

 


日本人の価値観多様性

それにしても、日本は大変おおらかな国であると、あらためて実感させられます。

神道の天照大御神を頂点とする八百万の神々と、インドからやってきた仏教系のブッタたちとが、仲良く習合して、どちらも伝統行事のなかにしっかりと根付いてきたというのが実体なのですから。

 

そういえば、クリスマスにはキリストの誕生をお祝いし、お正月には獅子舞で山王神の来日を祝福し、成人の日には中国の宮中行事であった「元服の儀」を行い、最近では古代ケルト人のハロウィンまで登場して、まるで「世界伝統行事博覧会」の様相を呈しています。

 

その理由を『竹内文書』は、一言で説明してくれています。

「すべては、日本から世界に広がったのだから」・・・・だと。

 

いずれにせよ、そんな日本人の「価値観多様性」の受容能力の大きさが、「世界平和へとつながってくれれば良いのに」と願うのは私だけでしょうか?

 

いま「生物多様性」という言葉がマスコミをにぎわせているのは、次にやってくるべき「民族多様性」への訓練をさせられているともいえます。

ちなみに、「生物多様性」を最初に説いたのは山王神なのです。

なぜなら「自分はもともと“猿”という畜生界に生まれたからだ」と言っています。

 

そして、世界中の様々な民族と、千差万別の思想・信仰体系をひとつにまとめあげる新人類、ヒットラーが予言するところの「超人」が、もしこれから登場するのだとしたら、日本人がいちばんそれに近いのではないでしょうか?