八咫烏に導かれて、吉野の山中に入ってゆくと、尻尾のはえたイビカロ(井氷鹿)とエシヌムユロ(吉野六郎)が、道案内します。
M38-1
また、道を間違えたとき、大きな熊が現れて、新羅人たちが掘った落とし穴に隠れていることを教え、身を呈して退治してくれます。
M38-2
⇒この熊こそ、熊野信仰のルーツではないか?と考えられる。詳しくは、こちら。
⇒『古事記』では、この熊は皇軍を気絶させた悪い神ということになっている。よほどこの熊が憎かったようで、徹底的に改ざんしたあとが見える。つまり、熊を憎んでいるのは誰か?を考えれば、『古事記』を書いた者の正体が分る。
狭野の命は、「ちょっとここで休憩して、作戦を練りたい」といい、
宇陀の国司を勤めていた兄ウガシ・弟ウガシの兄弟を呼びつけますが、兄は参内せず、
弟が駆けつけて「兄が裏切っていること」を報告したため、兄は血原というところで討たれます。
弟は、これを嘆いて「せめて兄の息子に国司を継がせてください」と懇願して、
聞き入れられたので、お礼の宴席を設けて歌を歌いました。
M38-3
⇒「ウカシ」はアイヌ語の「長老」のことだという説あり。
宇陀の十市というところで、国主の兄シキマロ(長男)、弟シキミロ(三男)の兄弟が蜂起して待ち構えていたので、八咫烏を飛ばして成敗します。
降伏した弟シキヨロ(四男)は、敵の様子を報告します。
(1) 新羅に従う大将は登美のナガスネヒコで、国見岳で何百人規模の勢力。
(2) クラジ兄弟は、高倉山に180人規模。
(3) アカミネ三郎は、吉野サタキに80人規模。
M38-4
ここに、ウマシマテの命という人が、蓑笠を着て、肩にクワをかついで「天津御子にお会いしたい」と、やってきます。
「何者か?」と聞くと、
「私も天津神の子孫です。」というので、詳細を尋ねると、
「ニギハヤヒの命の子孫で、宇麻志速日の命という者が、富美のナガスネヒコの妹・炊屋姫、またの名を鳥見屋姫に生ませた子で、宇麻志眞手の命と申します。」
さらに、「ここに来た理由は、天孫の御印である私の剣を、伯父のナガスネヒコに返して欲しいと言ったところ、
気でも狂ったか?返さずに私を切り殺そうとしました。
そこで私も、天皇が新羅人を駆逐すると聞いたので、それに協力して、わが国の穢れを祓いたいと思います。」
というので、日高狭野の命は、この人物をいたく褒めて可愛がりました。
M38-5
⇒ここでも、ナガスネヒコはニギハヤヒの直接の子孫ではなく、単なる姻戚関係であることが分る。
⇒なお、物部氏の祖先はこのウマシマテか、別人のウマシウチ(大久米の命)と思われるが、ナガスネヒコは物部氏とは無関係である。
詳しくは、こちら。
⇒のちに狭野が第73代に即位したとき、ウマシマテは秋津根の国の建(タケル)を任される。
暁どきに、山の上から、不吉な雲が現れます。
真ん中が火丹色の雲で、回りの黒い雲が、これを覆い隠そうとしているので、
これは「前方の敵だけでなく、後方にも敵がいるというしるしだ。」と判断して、
ワカトモリの命を偵察に出します。
M38-6
すると、ワカトモリの命から下記の報告がありました。
(4) 層富の波田というところで、新城三郎が80~100騎を率いて西の山に潜む
⇒波多の杜氏ともあるので、秦一族のことか?
(5) 和珥坂の居勢の村主・亀之子六郎という者が、180騎で後ろの山に潜む
(6) 臍見の長柄の村主・猪之子四郎という者が、80~100騎で、北の山峡に潜む
(7) 高尾張の砂魚八郎・砂魚九郎という兄弟は、手足が長いので「夷蜘蛛」という。腕力も強いので多くの人を従えていたが、ナガスネヒコが買収して味方につけた。
「これらの4部族は、みな強敵で、ナガスネヒコに寝返っております。
当方は1800人規模の軍勢で、(1)~(7)を、取り囲んで滅ぼすべきでしょう。」
M38-7
そこで、日高狭野の命は、「いとおかし」と、また久米歌を歌います。
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⇒この章では、(4)~(7)のことを「土蜘蛛」と呼んでいるので、「土蜘蛛」とは地方の反乱勢力を表す一般名称であることが分る。
さて、ここに中臣道之臣人の命と斎部大富の命が相談して、ウマシマテの命に、こう尋ねます。
「いま我々は四方に敵がいて、卵のように取り囲まれていますが、あなたに私たちを助ける良い知恵はありますか?」
するとウマシマテは、
「私の持っていた剣は神の子の御印なので、これを返せ!と言えば殺されます。
だから渡す!といえば、ナガスネヒコは私に服従して味方に付けるでしょう。
そのスキを見て首を刺して殺します。」
これを聞いた狭野の命は、「よし!」といって
「おまえに太玉大富の命をつける。私みずから国見岳に行って攻めているとき、鏑矢を合図に射るので、おまえら二人で間違いなく撃て!」
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また、中臣道之臣人の命に、作戦を尋ねると、さっそく神がかりしてこう答えます。
⇒中臣氏は代々ヤタの鏡を守って右大臣を勤めた家系で、このいくさでも策士として活躍。
⇒『古事記』は、大伴氏の祖先としている。
◆積羽若菱守の命と速玉山田の命に、(3)を討たせる
◆水分畑彦の命に、(4)を討たせる
また宇陀の十市で降伏したシキヨロ(四男)が再び蜂起するようならばこれも討つ
◆甕槌百合武の命に、(5)を討たせる
◆岩柝春蒔の命に、(6)を討たせる
◆手力国守の命と雷漏の命に、(7)を討たせる
⇒どうですか?ウエツフミの記録が「いかに正確で論理的か」が分かる一文です。しかも、これら全てが豊国文字で書かれているのです。
皇軍の旗印は、大幡指し物には日と月とをデザインし、胸には鈴をつけて、多くの小旗を並べ、ほら貝を吹き、「垂り貫」で胴を縛って、いくさ着としました。
また、大将たちはその家紋を付けた旗を並べ、布の垂れ幕をかざして、とてもきらびやかに出陣しました。
⇒このあたりの細かい描写は、とても偽作とは思えません。
さらに、中臣道之臣人の命は、タギシミミの命(神武の長男)にこう申し上げます。
「このようにすれば敵は恐れをなして攻めにくくなると思い考案しました。
どうか御身を犠牲にして、国の穢れを祓ってください。
また椎根津彦が勇猛なのでここに呼びましょう。」
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すると椎根津彦がやってきたので、
「忍坂の部隊は強敵で攻めあぐねているが、どうやって攻めるか?」と聞くと、
「敵の左側を守っている左軍を、我が右軍に襲わせます。
すると敵はその左軍を救おうとして、火種を守っている右軍が火を捨てて出てきます。
そのスキに我が左軍が、宇陀川の水を注いで火種を消してから、ただちに合流すれば、
敵は破れること間違いないでしょう。」といいます。
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そこで、中臣道之臣人の命はさらに続けて
「これは極秘の作戦だが、
◆まず登美彦に降参すると申し出て、タギシミミの命を牢屋に入れて人質として差し出す。
◆酒と肴を用意して、兄のシキ太郎にワイロを渡せば、心を許して私と飲むだろう。
◆その状況を見たら、椎根津彦の軍勢は、左坂の左軍を予定どおり攻めよ。
◆酒盛りがたけなわになったとき、兄のシキ太郎も酔って立ち上がれなくなるだろうから、
私が歌いながら舞うので、その声を聞いたら、タギシミミは牢屋を抜け出して、兄のシキ太郎を刺し殺せ。」
椎根津彦はそれを聞いて、「よし、みんなで一斉に攻撃を始めるのだ!」といい、
中臣道之臣人の命は、「私とタギシミミの命は、内側から攻め出ましょう!」
と、作戦が整います。
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まず、タギシミミの命を牢屋に入れて真っ先に人質として差し出しました。
兄のシキ太郎が酔ってひるむ様子を見て、中臣道之臣人の命が歌い始めます。
「久米歌」 (省略)
この歌が始まると、タギシミミの命は牢屋を蹴り壊して、
八握の剣(やや短めの接戦用の剣)を抜いて、兄のシキ太郎の首を打ち落とします。
中臣道之臣人の命も太刀を抜いて、一緒に内側から討ち出せば、
椎根津彦は外国勢と戦っており、皇軍に攻められて忍坂の屋敷は火の海となって、ついに滅びてしまいました。
そこで、軍人がみんなで凱旋の歌を歌いました。
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(3) 吉野のエタキ(サタキともある)にて、アカミネ(アカカネともあり)三郎の軍勢を滅ぼす。弟の四郎が首を切られたところをクビキという。
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(4) 層富群の波多田杜氏、新城三郎・四郎の兄弟を滅ぼす。
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(5) の亀之子六郎も、地元民に討たれる。
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(6) の猪之子四郎も、滅ぼされる。
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(7) の砂魚八郎・砂魚九郎は、高尾張の山背の岩洞に隠れて入口に網を張るが、その岩を壊され、自らその網にかかって突き殺される。
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忍坂を火攻めにしているあいだに、大久米の命(ウマシウチ)を中心とする数百人の部隊も合流し、
国見岳のナガスネヒコの陣地を攻めると、
最初に居たナガスネヒコの手下たちも散々に逃げてしまいました。
このとき、狭野の命が(当初の打ち合わせどおり)鳴り鏑矢を屋敷に打ち込むと、
(ニギハヤヒの子孫の)ウマシマテの命と、太玉大富の命が、十握の剣(やや長めの野戦用の刀)を抜いて、
ナガスネヒコの屋敷に攻め込んで、こう告げました。
「汝は、我らが祖先の御印の天の羽々弓と、天の羽々矢をもって、
自分を天孫と偽って人民を騙し、
生駒の宮代の神実代を盗み取って唱え、
しかも私の神実(宝剣)までも奪い、
そのうえ私までも殺そうとし、
新羅人の悪事にのって国の穢れをなし、
また、天孫たちを殺害し、
この日本国を奪おうとし、
新羅人を味方につけた。
これらは、天の神々の怒りであり、その罪は深い。
この日本に居るべきではないとのお告げがあった。
だから、私の伯父ではあるが、天の神の罰から逃げられない。
私自身が手を下して、ここに誅する!」
するとナガスネヒコは、
「たしかに私の罪は深い!だから汝は手を下すな。自分で首を吊って死ぬ!」といい、
その場で自殺しました。
登美彦というのは、外国人とつるんだときの(外国人が付けた外国風の)名前であり、
だからこそナガスネヒコのことを「登美彦」と呼ぶのです。
M38-18
ここに、皇軍はナガスネヒコの一族のうち、まだ抵抗する者は皆殺しにしますが、
逃げた者たちは追いかけませんでした。
ナガスネヒコの七男の髓田輪之男郎は、お祓いをして罪を許し、特別に逃がしてやりました。
⇒この皇軍の紳士的な態度が、あとから命取りになる可能性もある。
⇒このとき逃がされた子孫が東北・津軽に渡ったという説あり。
⇒つまり、のちにこの勢力が再び蜂起してウガヤ王朝を滅ぼした可能性もあるが、記録が一切残っていない。
ここに、大久米の命以下、皇軍の勢力は引き上げて、全国にこの事件を知らせたので、国は穏やかになりました。
そこで、日高の宮に居た第71代に報告します。
M38-19
さらに、牟婁の新羅人と戦った高倉下の命も凱旋し、稲飯の命、三毛入野の命、ほか五柱が、サイモチの神となって外国人を全滅させたことも、詳細に報告しました。
M38-20
そこで、牟婁の地に新宮を建てて、七柱の神を祀り、海津の大神として斎き祀ったので、この地を「和田津」といいます。
M38-21
⇒現在の和歌山県新宮市に新しい行政府を設置すると同時に、熊野神社のベースとなる「ワタツミ神社」が創建された。
第71代は、狭野の命に「いくさの終わった国々を巡幸すべし」と、命令しました。
重臣たちを連れて牟婁の地を訪れましたので、いくさに参加した人民たちもみな喜んで迎えました。
そこから吉野、宇陀、宇治を巡幸し、人民たちに褒賞を与えたので、国内は平穏になりました。
M38-22
このあと、下記のイベントが引き続きます。
◆第74代・カムヌナカワミミの命ほか五柱が誕生
◆戦死した五瀬の命が、神のまま第72代に即位
◆豊の国に凱旋帰国し、人民の歓待を受ける。
⇒神武天皇の、詳しい帰国ルートはこちら。
◆日高狭野の命が、第73代に即位
◆国内を巡幸しようとするが、春雨が降り続き、川が増水して、出発できず。
(天変地異がまだ続いていた可能性大)
◆フトマニによる占いを行なうと、「秋津根国、草木根国に新しい宮を造れ」というご神託が降りる。
◆ただちに船団を仕立てて遷都に出発するが、豊の国の住人は深くこれを悲しむ。
◆「畝傍山の東南の隅なる橿原」に遷都し、ここに新宮を建設
◆これ以降の記録が途絶える
【完】
今後、さらにコンテンツを充実させてゆきますので、お楽しみに!
※ウエツフミの記述をもとに、主要な場所をプロットした地図です。あくまでも参考としてください。
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<【前書き】に戻るのは、こちら。>