明治10年発刊の『上記鈔訳』には、当時の県知事も参加していた!

明治10年に発刊された『上記鈔訳(うえつふみしょうやく)』には、この本が出版された経緯が書かれています。

 

◆明治9年8月18日付の「東京日々新聞」に、

「肥後国山鹿郡相良村にウガヤフキアエズの命の山稜がある」

という記事が掲載された。
◆これに対して、大分県の士族(岡藩の藩士)・吉良義風氏が下記の異論を唱え、紙面上で議論が盛り上がった。
「豊後国・守護の大友能直が編纂した『ウエツフミ』によると、ウガヤ第8代女帝の墓は日向の相良にあると書かれているが、熊本としたのは誤り。詳細は政府にも献本した『上記山稜実地考』に書いたとおり。教部大輔(現在の神社庁)は、もう一度詳しく調査してほしい、云々。」
◆吉良氏の説は「前代未聞の珍説」とされたが、そもそもこれだけ詳しい史書が存在するのに、上代歴史学者たちは全く無視しており、わが国上代の歴史が歪曲されて伝わっているのは納得がゆかない。
◆中略
◆そこで、その吉良氏が記した「鈔訳」を発刊して、衆人のあまねく知るところとして、改竄できないようにしたので、後代の人は参考にして欲しい。

 

明治10年夏8月 岸田吟香(東京日々新聞・主筆)による「序説」より
出展・・・・・国立国会図書館近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772039


このあと筆者の吉良義風氏自身による「自序」が続きます。
そのポイントは下記のとおりですが、ウエツフミの全体像が伝わってきます。

 

◆「ウエツフミ」は、大日本帝国上代の歴史にして、貞応2年(1223年)従四位侍従大友左近将監藤原能直朝臣の編纂である。(朝臣は源頼朝の次男である)
上代文字で書かれており、引用した15の古文書が序章に列記され、本文中にも引用した古文書名が明記されている。紛失した部分もあるが41冊が現存している。

>>> 「ウエツフミには由緒正しい『底本』が存在した!」

 

◆豊後国大野村土師村の宗像氏(大友氏の重臣)が代々秘蔵してきたが、紛失した部分が多く混乱していた。
近年、大分郡大分町の国学者・幸松葉枝尺(さちまつ はえさか)が写本したが、順序の分からない部分も多かった。

 

◆海部郡臼杵町の大友氏(能直の末裔)が所有する別本を、大分県令(県知事)の森下景端が謄写して、幸松の写本と校合することを計画していた。

 

◆そこには、ウガヤフキアエズ天皇より神武天皇に至る73代の治世が記されている。
(73代のうち26天皇の御稜の場所は明らかなので、『上記山稜実地考』に書いた)

 

◆ウエツフミは上代文字で書かれており、しかも古語が多いので、その一部を読んでも理解できない人が多く、ましてや全巻を通読した人は皆無であろう。
既に通説となっている「古事記」や「日本書紀」だけが正史であり、異説があってはならないとされていることは、誠に残念である。

 

◆以下に編集方針などが続く。(省略)


当時の大分県令(県知事)であった森下景端氏も、この『鈔訳』の編集に参加して、校閲を担当していたのです。
つまり、この書物の発刊が、当時、大分県を挙げての“一大プロジェクト”であったことが分かります。
<森下景端氏のプロフィール>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E4%B8%8B%E6%99%AF%E7%AB%AF


それにしても、なぜ当時の教部大輔(現在の神社庁)は、大分県民の痛切な訴えを全く無視して、現在に至るまで『上記』は偽作とされているのでしょうか?

 

当時、明治政府が推進しようとしていた「国家神道」による日本国民の統合、その大方針にそぐわない部分が書かれていたからではないでしょうか?

 

つまり、「天皇家は万世一系ではない!かつて存在したウガヤフキアエズ王朝を滅ぼして、これにとって代わった!即ち、神話の神々は天皇家(特に明治天皇)の祖先ではない可能性がある。」という部分が、「不都合な真実」として、歴史から抹消されているのです。

 

 

>>> 「ウエツフミには由緒正しい『底本』が存在した!」

>>> 「日本史を動かしてきた二大勢力----それは縄文人と弥生人だった!」


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