ウエツフミには、奈良のナガスネヒコとの戦いに勝利した神武天皇が、豊の国に凱旋帰国する様子が詳細に描かれています。
このルートから、神武天皇がどこを本拠地としていたかが、具体的に浮かび上がって来ました。
神武天皇は、神武東征の後、一旦、故郷の豊の国に帰郷します。
ご神託により奈良の「橿原の宮」に遷都することになったのは、その数年後のことです。
和歌山を出航した皇軍は、大分市坂ノ市に上陸し、そこから大野川沿いに遡って、奥豊後にあった「二上りの大宮」を目指します。
つまり、皇軍が凱旋帰国した故郷とは、大分県竹田市の周辺だったのです。
それではまず、その帰国ルートを詳細に見てみましょう。
ウエツフミの記述から 宗像本第39綴第15章
◆和歌山県のウシロの港(場所不明)を出航。
無風で船が進まず、天皇が船酔いしたので陸路に変更の指示が出るが、シイネツ彦一族が船を漕いで前進。
◆シイネツ彦の舵取りで瀬戸内海を航行。
途中、沿岸の中国・四国地方の人民の歓待を受ける。
◆大分市坂ノ市にあった「丹生の港」に到着。(現在でも丹生神社や丹生川が残る)
◆ここで、豊後の国主だった海之部彦の命が、サナハラ(佐賀関町古宮地区)に、歓迎のための大宮を建設して饗応する。
天皇一行は御輿に乗って入場。ここに佐賀という地名を賜る。
◆ここから全員馬に乗って、途中、大野川の川尻(河口?)のイキの河原(場所不明)で休憩。
◆ここで突然、父上の第71代ウガヤフキアエズ天皇が、「この国は衰退し人民はみな弱っている」と嘆き、御輿を降りて徒歩で歩き出したので、神武天皇以下全員が馬を降りて従う。
すると、中臣氏・斎部氏が進み出て、「せっかくの凱旋帰国なのですから、晴れ晴れしく帰られたほうがよろしいかと。一人で歩いて帰られれば、人民たちが嘆き悲しむことでしょう」と、進言すると、第71代は、
「この国は、家があるのに人が居ない。人は居ても会話が少ない。だから国が衰退して、貧しく、患っているのだと思う」
そこで、これを聞いた女子供や爺婆が出てきて、楽器を鳴らしながら歌って歓迎しました。
(成人男子が戦に借り出されて人口が激減していたことが分かる)
◆そこで、天皇は喜んで再び御輿に乗ったので、シイネツ彦が音頭を取って、人民が裸になって御輿を担ぎ、大野川を渡ったので陸路より早く向こう岸に着くことができた。
◆今度は向こう岸の住民が川で禊をしてから、「さむさ」を歌い踊りながら、御輿や馬を誘導して、霊山のふもとの「大分の宮」に案内した。
そこで天皇は、お供をした人民たち全員に酒と肴をふるまった。
◆次の日は9月4日だったが、早朝から直入の人民が松明を灯して法螺貝や銅鑼や息吹を鳴らしながら、旗を立ててにぎやかに迎えにやってきて、「御輿を担がせて欲しい」と言うので、大分の人民と言い争いになる。
2柱の神が仲裁に入って「大分の域内では大分の人民が、直入の域内では直入の人民が担ぐこと」と取り決め、人民も納得して従う。
※直入(なおいり)地方とは、竹田市を中心に、荻町、久住町、朝地町、緒方町、大野町、三重町一帯のこと。
◆この直入隊の先頭を、老人が若者を背負っている者が先導していたので、神武天皇が不振に思い、休憩中に呼んで事情を尋ねると、
「自分たちは直入の北(久住あたりか?)の出身で、背負っているほうは124歳、背負われている私は22歳で、私のひい爺さんです」というので、
神武天皇はかんかんに怒り、「若いおまえが背負って当然だろう、憎きやつめ!」というと、
村長が飛んできて「いえ、そうではありません。この爺さんに孫やひ孫は多く居ますが、このひ孫がとりわけ可愛いのでいつもそばに置いて、ひ孫も言うとおりにしているだけです」と説明しました。
神武天皇がその爺さんに「お前は、ひ孫に何を教えようとしているのか?」と聞くと、
爺さんが「私は神のみ心を受けたので、それを教えております※」というので、
※暗に、御輿に乗った神武天皇を批判しているとも取れる。
神武天皇は恥ずかしくなり「そうか、お前がそう教えるから家内が栄えているのか。今後は私の師となって、天下の事を教えよ!」と、天下(あめした)スガウの命という名前を賜りました。
※これが中臣氏の分家であり藤原氏系図にも登場する菅生氏の祖先で、「すごう」や「すがお」の地名にもなっている。
◆一行は「直入の宮」を出発して、御輿で「高千穂の二上の大宮」を目指す。
※なお、高千穂国とは福岡・大分・熊本・宮崎・鹿児島の5県にまたがるウガヤフキアエズ王朝の「元つ国」をいう。詳しくは、こちら。
◆途中、皇族や家臣たちが「三宅」(竹田市大字三宅)まで出迎えに、オシャレをして奉げ物を持って出て来る。
※なお、ここで三宅のことを「高千穂の極みなる三宅の山野」と表現されており、高千穂国のうちでも、最も標高の高い頂点であることと、広い野原が広がっていたことが分かる。
◆そして、一行は堂々と行進しながら「二上(ふたのぼり)の大宮」に入り、ここからお供の者たちもそれぞれの自宅へと帰る。
※写真は江戸時代に三宅地区に建てられた「萬古明燈」。神武天皇を迎えるために置かれた「遠見灯篭」のレプリカであるが、現在ではそのご由緒さえも曖昧になっている。
以上の記述からの考察
さてさて、以上の記述から下記のことが分かります。
◆「二上の大宮」とは、宮崎県の高千穂町のことではない
竹田市の三宅と宮崎県の高千穂町のあいだには、標高1,756mの祖母山という山が横たわり、現在でも道路がありません。
徒歩で行くなら、絶対に1日(8時間)では越えられない険しい登山道です。
「尾平越え」という山道がありますが、ものすごく遠回りになります。
つまり、盆地状の祖母山の北側の尾根を越えてから、南側の尾根を尾平越えするか、尾根を避けるように、祖母山の周りをぐるりと迂回する必要があります。
つまり、最初から宮崎県の高千穂町を目指していたのなら、このルートは絶対にあり得ません。
◆第12代景行天皇の遠征ルートから
のちに、景行天皇が、この地に「土蜘蛛征伐」ということでやってきますが、景行天皇が最終的に攻めたのは、現在の竹田市荻町の「菅生地区」です。
「日本書紀」には、このとき景行天皇が、松本地区から現在の国道57号線に沿って長い坂道を登っていくと、「両側の崖から弓矢が雨のように降ってきた」という描写が生々しく語られています。
ここ菅生地区には、弥生時代末期の大集落があり、3世紀に入ると、忽然と生活の痕跡が途絶えているのです。
まるで、ここの住民たちが根絶やしにされたことを物語るように・・・・
つまり、菅生地区に大宮があったことはほぼ間違いありませんが、問題は、これが「直入の宮」であったのか、「二上りの大宮」であったのか、ということです。
これを解くヒントは、「直入の宮」と「二上の大宮」の中間に「三宅」があったということです。
そこまで皇族たちが出迎えたというのですから。
この「三宅」という土地は、現在でも竹田市から東に出るときは必ず通らなければならない谷間であり(南北に小山が連なるため)、天然の関所となっています。
◆神武天皇が目指した「二上の大宮」とは、菅生地区のことである!
以上から「二上りの大宮」とは、菅生地区以外には考えられません。
この土地に立ってみると分かるのは、ここが広大で肥沃な高地性の大平原であるということです。
※弥生時代末期に、全国各地から発見されている「高地性集落」の典型例です。
しかも、南側に祖母山、北側に久住山の雄大な姿が、大パノラマで望めます。
つまり、「二上り」とは、この2つの峰をどちらも望める豊かな土地という意味ではないでしょうか?
さらに、ウエツフミに登場する「菅生氏の祖先」とは、この地域の重要人物であり、それが地名になった可能性も大いにあります。
◆それでは、「直入の宮」とはどこか?
それは、「三宅」の東側であり、もうひとつの肥沃な平野である「緒方平野」だと考えられます。
大野町も肥沃な土地で、ここにウエツフミを伝えた神社もありますが、ここは「大野の宮」と呼ばれていました。
このことを裏付ける記述が、ウエツフミにはあと2つあります。
ひとつは、豊玉姫で、夫の山幸彦に出産の姿を見られたので怒って竜宮城に帰ってしまいますが、その後仲直りして、新婚生活を楽しんだのが、この「直入の宮」なのでした。
だから、祖母山に豊玉姫が祀られているのです。
もうひとつは、第33代・スガノミヤ姫が本拠地としたのが、この「直入の宮」なのです。
このことは、以前にも書きましたので、こちらから。
◆三重町にある「上田原御手洗神社」のご祀神とは?
ここには、神武天皇の兄弟である稲飯の命と御毛入野の命が祀られています。
詳しくは、こちら。
◆なぜこの場所が選ばれたのか?
大野川流域沿いに点々と「大宮」が存在していますが、その分布状況は「中央構造線」と完全に一致します。
つまり、パワースポット上に拠点が配置されているということです。
(日本のパワースポットのほとんどが中央構造線上にあると言われている。ちなみに中央構造線の西端が阿蘇山)
また、「ニ上(ふたのぼり)の大宮」の跡地に現存する「禰疑野神社」は、天孫降臨の地と思われる祖母山山頂と久住山山頂を結んだ直線の、ちょうど中間に位置します。
これは、偶然の一致でしょうか?
さらに、このあたり一帯は、大野川流域を中心に深い山が周囲を取り囲む盆地状の地形で、天然の要塞となっています。(下記のイラスト参照)
この地形から「日向の国」(東に向かって開けるの意)と呼ばれたのです。
つまり、以上の考察から得られる結論とは、この竹田市と豊後大野市にまたがる奥豊後地方が、神武天皇を中心とする皇族たちの本拠地だったのです。
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